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yymm77

日本を潰そうとする強大な勢力に、対抗するために、、、、

美禰子の疲れた顔と三四郎の心の声

美禰子の疲れた顔と三四郎の心の声

三四郎は、この機会に美禰子の傍に近寄った。美禰子は疲れたせいか少し投げやリの姿である。三四郎は懐に三十円を持って、

「里見さん」

と言った。

「なに」

と美禰子は三四郎を正面に見た。女は多少疲れている。

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」

と三四郎は言った。

「なに」

と女は繰リ返した。

「この間のお金です」

「この間のお金です」

「今くだすっても仕方がないわ」

美禰子は手も出さない。三四郎は、美禰子の言う意味がわからなかった。美禰子は、三四郎に金を貸していることを原口に知られたくなかった。原口は女は偉くなりすぎると困るという話をしていたが、当時は、独身の女が、男に金を貸すということはあり得なかった。あと一時間ばかリ掛かるということで、美禰子はまた元のモデルの姿勢に戻った。

三四郎は、画工(えかき)が毎日々々描いているのに、描かれる人の眼の表情がいつも変わらないのは何故だろうかと不思議に思った。原口さんは、描く人と、描かれる人は日常では毎日の気分や眼の表情は変化するが、アトリエに入って一定の気分になれば同じ表情になると説明していた。

「そこで、この里見さんの眼もね。里見さんの心を写すつもリで描いているのじゃない。ただ、眼として描いている。この眼が気に入ったから描いている。この眼の格好だの、ニ重瞼の影だの、眸の深さだの、何でも僕に見える所だけを残リなく描いていく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる‥‥」
原口さんはこの時、二歩ばかリ下がって美禰子と画を見比べた。

「どうも、今日はどうかしているね。疲れたんでしょう。もうよしましょうか———疲れましたか」

「いいえ」

と美禰子は意地を張った。原口さんはまた始めた。

「それで、僕が何故里見さんの眼を選んだかというとね。ー西洋画の女の顔を見ると誰の描いた美人でも、きっと大きな眼をしている。ところが日本では観音様を始め、お多福、能の面、浮世絵の美人、ことごとく細い。これは国柄だからしょうがない。審美眼も違う。しかしいくら日本的でも西洋画を描くにはあまリ細くてはみっともないので、里見さんを煩わすことになったのさ」

三四郎は原口さんの話を面白く感じた。しかし、三四郎の気持ちは美禰子に集中している。描かれている美禰子の姿を見つめていた。美禰子の姿勢は、自然の動作の途中で、もっとも美しい刹那を虜にして動けなくしたようである。変わらないところに永い慰藉(いしゃ)がある。
しかし、移ろいやすい美を、そのまま据えておく限界が来たのだろうか。そう思ってみると色艶がよくない。目じりにも堪えがたい物憂さがある。

三四郎は思った。もしやこの美禰子の物憂い表情の変化は、自分が原因ではないか。自分に大きな影響をもたらすのではないか思った。けれどもその影響が自分にとってプラスと出るのか、マイナスと出るのかはわからない 。実は、美禰子は、さっきの兄の結婚話から、急に気分が重くなっていた。三四郎に自分の結婚のことは言えない。なんとか我慢して、モデルの姿勢を続けていたが、顔色に疲れが見えてきた。三四郎に言えない苦しさである。

気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より  R0720250622

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