美禰子の気持ちがわからない三四郎
原口は、
「どうです。精養軒でお茶でも飲みませんか」
と誘ったが、美禰子は
「折角来たから全部見ましょう。ねえ、小川さん」
と三四郎に同意を求めた。美禰子は、二人になって、三四郎の気持ちを確かめたいと思っている。その後、原口の忠告に従って二人は別室に入リ深見画伯の遺画(いが)を見た。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列に懸かっている深見先生の遺画を見ると殆ど水彩画ばかりである。水彩の色が薄くて、数が少なく、対照に乏しくて地味に描いてある。その代わリ一気呵成に仕上げた趣かある。ここにもヴェニスの絵がある。
「これもヴェニスですね」
と美禰子が言った。ヴェニスで三四郎は急に思い出した。
「さっき何を言ったんですか」
と聞いた。女はまた真っ白な歯を顕した。美禰子は
「用じゃないのよ」
と言う。女は絵を離れて三四郎の真正面に立った。
「野々宮さん。ね、ね」
「わかったでしょう」
美禰子の意味は大波の崩れる如く、一度に三四郎の胸を浸した。
「野々宮さんを愚弄したのですか」
と聞くと、美禰子は
「何で?」
と無邪気である。美禰子は野々宮を愚弄するつもりはない。野々宮に対する美禰子の気持ちは、もうすつきりしていて何のわだかまりもない。ただ、ちょっとおどけて、無邪気に演技したまでである。美禰子は詩人である。時々そのような悪気のない行動を見せる。しかし、三四郎は、美禰子の軽い気分がわからない。生真面にまともに受け取ってしまう。三四郎が無言のまま歩き出した。美禰子は縋(すが)るように ついて来て、
「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
と言った。三四郎は、意味がわからないが、
「それでいいです」
と答えた。三四郎は戸口を出る時‘肩が触れたが、美禰子の肉に触れたところが‘夢に疼くような気がした。
「本当によろしいの?」
と美禰子が小さい声で聞いた。外に出ると雨が降っていた。美禰子は雨の中に立って見回しながら
「あの樹の蔭に入リましょう」
と言った。雨を防ぐには都合のよくない樹だったが、二人とも動かない。濡れても立っている。二人とも寒くなった。
「悪くって? 先刻のこと」
と美禰子が言う。三四郎は
「いいです」
と答えた。美禰子は
「だって」
と言いながら寄ってきた。
「私、何故だか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもリじゃないんですけれども‥‥」
美禰子は、瞳(ひとみ)を定めて三四郎を見た。三四郎はその瞳の中に深き訴えを認めた。
「あなたのためにしたことじゃあリませんか」
と二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一遍
「だからいいです」
と答えた。二人は一つ処に固まった。美禰子は
「あなたのためにしたのだ」
と二重瞼の奥で訴えた。これは美禰子の心からの鎚るような愛の告白であった。美禰子は素直に
「ありがとう」
と言ってほしかった。しかし、最後の三四郎の言葉
「だからいいです」
は美禰子の胸を突き刺した。アーまだわからない。三四郎さん! 何故、私の気持ちをわかって下さらないの。
美禰子は悲しくなった。美禰子は兄の友人との見合いを迫られている。時間の余裕はない。私をさらって行って下さいという切迫した訴えだった。雨はだんだん強くなった。雫の落ちない所は僅かしかない。肩と肩とが擦れ合うくらいにして立ち疎んでいた。
雨の音の中で、美禰子が、
「さっきのお金を御遣いなさい」
と言った。
「借リましょう。要るだけ」
と答えた。
「みんな、御遣いなさい」
と言った。しばらく経って、美禰子はようやく見合いすることを覚悟した。お金は三四郎さんにあげよう。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦(文芸社刊2016年)より R0720250611