四 実践
常朝は日常生活のこまかなことについても、役に立つ、さまざまなヒントを与えている。
「人中にて欠伸(あくび)仕り候事、不嗜(たしなみ)なる事にて候。不図欠伸出で候時は、額を撫で上げ候 へば止み申し候。さなくば舌にて唇をねぷり口を開かず、又襟の内袖をかけ、手を当てなどして知れぬ様に仕るぺき事に候 。くさめも同然にて候 。阿呆気に見え候 。この外にも心を付け嗜
む ぺき事なり 。
翌日の事は 、前晩よりそれぞれ案じ 、書きつけ置かれ候。これも諸事人より先にはかるペき心得なり。(略)」( 聞書第一 一〇五及び一〇六頁)
あくびをとめることはきょうにも実行できることである。わたしは戦争中からこれを読んで、あくびが出そうになると上唇をなめてあくびをがまんした。ことに戦争中には大事な講話の最中にあくびをしてさえ叱責を受けたので、常朝の教えははなはだ有効であった。いまもわたしが実行していることは、「翌日のことは、前晩よりそれぞれ案じ」という常朝の教えである。
わたし自身はあくる日の予定を前の晩にこまかくチェックして、それに必要な書類、伝言、あるいはかけるぺき電話
などを、前の晩に善きぬいて、あくる日にはいっさい心をわずらわ せぬように、スムーズにとり落としなく仕事が進むように気をつけている。これはわたしが「葉隠」から得た、はなはだ実際的な教訓の一つである。
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240730 P43