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日本を潰そうとする強大な勢力に、対抗するために、、、、

「葉隠」三つの哲学  『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)より

「葉隠」三つの哲学  『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)より

わたし(三島由紀夫)が考えるのに、「菜隠」はこれを哲学書と見れば三大特色を持っている。一つは行動哲学であり、一つは恋愛哲学であり、一つは生きた哲学である。

第一に行動哲学という点では、「菜隠」はいつも主体を重んじて、主体の作用として行動を置き、行動の帰結として死を置いている。あくまでおのれから発して、おのれ以上のものに没入するためのもっとも有効なる行動の基準を述ぺたものが「葉隠」の哲学である。したがって、そこには第三者の立場で、Aなる要索とBなる要素をつき合わせたり、Aなる勢力とBなる勢力をあやつったりする、マキャペリズムの哲学は出てこない。これはあくまで主観哲学であって、客観哲学ではないのである。行動哲学であって政治哲学ではないのである戦時中、政治的に利用された点から、「葉隠」を政治的に解釈する人がまだいるけれども「葉隠」には政治的なものはいっさいない。武士道そのものを政治的な理念と考えれば別であるが、一定の条件下に置かれた人問の行動の精隋の根拠をどこに求めるぺきかということに、「葉隠」はすぺてをかけているのである。これは条件を替えれば、そのままほかの時代にも妥当するような普遍性のある教説であると同時に、また個々人が実践をとおして会得するところの、個々人の実践的努力に任せられた実践哲学であるということができる。
第二に「葉隠」は、また恋愛哲学である。恋愛という観念については、日本人は特殊な伝統を経、特殊な恋愛観念を育ててきた。日本には恋はあったが愛はなかった。西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、じょじょに肉欲を脱してイデアの世界に参入するところの、プラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガベーは、まったく肉欲と断絶したところの精神的な愛であって、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。
したがって、ヨーロパの恋愛理念にはアガペーとエロースが、いつも対立概念としてとらえられていた。ヨーロッパ中世騎士道における女性崇拝には、マリア信仰がその基礎にあったが、同時に、そこにはエロースから断絶されたところのアガペーが強く求められていた。
ョーロッパ近代理念における愛固心も、すぺてアガペーに源泉を持っているといってよい。しかし日本では極端にいうと国を愛するということはないのである。女を愛するということ はないのである。日本人本来の梢神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながっている。もし女あるいは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変わりはない。このようなエロースとアガペーを峻別しないところ の恋愛観念は、幕末には「恋闕(れんけつ)の情」という名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊しているとはいえない。それは、もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすぺき理想に一直線につながるという確信である。
「葉隠」の恋愛哲学はここに基礎を置き、当時女色よりも高尚であり、精神的であると見なされた男色を例に引いて、人間の恋のもっとも真実で、もっとも激しいものが、そのまま主君に対する忠義に転化されると考えている。
第三、生きた哲学。「葉隠」は一つの厳格な論理体系ではない。第 一巻、第二巻の常朝の言行の部分を見ても、あらゆるところに矛盾衝突があり、一つの教えがまた別の教えでくつがえされていると見ることができる。根本的には「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という「葉隠」のもっとも有名なことばは、そのすぐ裏に、次のような 一句を衷打ちとしているのである。
「人問一生誠に纔(わずか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の問の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て在すは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。」(聞書第二 172頁)と言っている。すなわち「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は第 一段階であり、「人間一生誠に段の事なり。好いた事をして暮すべきなり。」という理念は、その裏であると同時に奥義であり、第二段階なのである。
「葉隠」は、ここで死と生とを楯の両面に持った生ける哲学としての面を明らかにしている。
一方では、死ぬか生きるかのときに、すぐ死ぬほうを選ぷぺきだという決断をすすめながら、一方ではいつも十五年先を考えなくてはならない。十五年過ぎてやっとご用に立つのであって、十五年などは夢の間だということが書かれている。これも一見矛盾するようであるが、常朝の頭の中には、時というものへの蔑視があったのであろう。時は人間を変え、人間を変節させ、堕落させ、あるいは向上させる。しかし、この人生がいつも死に直面し、一瞬一瞬にしか真実がないとすれば、時の経過というものは、重んずるに足りないのである。重んずるに足りないからこそ、その夢のような十五年間を毎日毎日これが最後と思って生きていくうちには、何ものかが蓄積されて、一瞬一瞬、一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。これが「葉隠」の説いている生の哲学の根本理念である。
では次に、このようにいきいきとした、矛盾にみちた「菜隠」の哲学について、「葉隠」のいわば精髄をとりあげ、一つ一つ、聞書の順序にしたがって、わたしの考えを述べていこう。

『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)   20240726  P37


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