二十一 言行が心を変える
われわれ近代人の誤解は、まず心があり、良心があり、思想があり、観念があって、それがわれわれの言行にあらわれると考えていることである。また言行にあらわれなくても、心があり、良心があり、思想があり、観念があると疑わないことである。しかし、ギリシャ人のように目に見えるものしか信じない民族にとっては、目に見えない心というものは何ものでもない。そしてまた、心というあいまいなものをあやつるのに、何が心を育て、変えていくかということは、人問の外面にあらわれた行動とことばでもって占うほかはない。「葉隠」はここに目をつけている。そしてことばの端々にも、もし臆病に類する表現があれば、彼の心も臆病になり、人から臆病と見られることは、彼が臆病になることであり、そして、ほんの小さな言行の瑕墐(かきん)が、彼自身の思想を崩壊させてしまうことを警告している。そしてある場合、これは人間にとって手痛い真実なのである。われわれは、もし自分の内心があると信ずるならば、その内心を守るために言行のはしばしにまで気をつけなければならない。それと同時に、言行のはしばしに気をつけることによって、かつてなかった内心の情熱、かつて自分には備わっていると思われなかった新しい内心の果実が、思いがけず豊富に実ってくることもあるのである。
「武士は万事に心を付け、少しにても後れになる事を嫌ふべきなり。就中物言ひに不吟味なれば、『我は臆病なり。その時は逃げ申すべし、おそろしき、痛い。』などといふことあり。ざれにも、たはぷれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。心ある者の聞いては、心の奥おしはからるるものなり。兼て吟味して置くべき事なり。」(聞書第一 一四二頁)
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240816 P63