与次郎の話
一週間ほど経って野々宮さんは下宿の下女を通して手紙を寄こした。お母さんから頼まれ物があるから、ちょっと来てくれと言う。三四郎は講義の合間をみて、理科大学の実験室に行ったら野々宮さんは忙しそうにしている。野々宮さんは、金が届いたが、今は持っていない。別に話すこともあるから、家に来てくれということであった。次の講義の時に与次郎に話すと
「馬鹿だなあ」
と言われた。
「だから、黙っていつまでも借リておけと言ったのに‥‥‥。余計なことをするから年寄リには心配をかけ、宗八さんにはお説教を食うことになる、これほど馬鹿なことはない。金に困っていない者は、人に貸しておく方がいい気持ちに決まっている。人間は自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだから」
と与次郎は言う。講義が終って帰る時、与次郎が突然、
「あの女は君に惚れているのか」
と聞いた。
「よくわからない」
と三四郎は答えるほかなかった。すると与次郎は、
「しかしあの女が惚れていたとしても、君はあの女の夫になれるか?」
と三四郎を見る。三四郎は今まで、そんなことは考えたことがなかった。美禰子に愛されるという事実そ
のものが、彼女の夫たる唯一の資格であるというように思っていた。与次郎は、
「野々宮さんならなれる(夫の資格がある)」
「まあ野々宮さんの所に行ってお説教でも聴いてこい」
と池の方に行きかけたが、また戻ってきて、
「君、いっそよし子さんを貰わないか」
と三四郎を引っ張って池の方へ連れて行った。与次郎は
「あれ(よし子)ならいい、あれならいい」
と、二度繰リ返した。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250616