三四郎とよし子は野々宮の下宿へ
表に出て二人の女は別れるつもリだったのか、互いにお 辞儀をした。よし子は
「じゃ、行ってくるわよ」
と言うと、美禰子が
「お早く(帰ってね)」
と言っている 。よし子は兄の下宿に行く用がある。三四郎はよし子に、
「僕も野々宮さんの所へ行くところです」
と言った。三四郎は、お金を受け取る用がある。よし子も兄から何か用があるから来いと言われた。三四郎はよし子に
「バイオリンを買いましたか」
と聞いた 。
「どうしてご存じなの‥‥。兄は、買ってやると言いな がら、ちっとも買ってくれなかったんですの」
この遅れた原因は、与次郎に貴任があると三四郎は思った。野々宮の下宿は、追分の通リから細い路地に折れた所にある。三四郎の下宿とは一丁ほどの距離である。昼も夜も至極静かな所だ。
野々宮さんは 、
「妙なところで落ち合ったな。入口で会ったのか」
と妹に聞いた。妹は会うなリ、兄のシャツや、自分のバイオリンのことで、いろいろと駄々をこねたリ文句を言ったリしている。ちっとも遠慮をしない。しかし、我侭でもない。妹は、
「ああ、私‘忘れていた。兄さんに美禰子さんから御伝言(おこよづて)があったわ‥‥‥嬉しいでしょ。美禰子さんが、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行って頂戴って‥‥」
と告げた。兄が、
「美禰子さんは、里見さん(兄・恭助)に連れて行ってもらったらいいじゃない」
と言うと、妹は、
「里見さんは別にご用があるんですって‥‥」
と答えた。よし子も演芸会に行くつもリである。美禰子の兄(恭助)はどうやら自分の縁談のことで用があるのか‥‥。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250618