一緒に外に出てからの会話
その時、原口さんは筆を置いた。
「もうよそう。今日はどうしても駄目だ」
と言い出した。美禰子は持っていた団扇を、立ちながら床に落とした。羽織を取って着ながら、こちらへやって来た。
「今日は疲れていますね。いや実は僕も疲れた。又明日、元気な時に描きましょう。お茶でも飲んでゆっくリなさい」
と、原口は勧めた。夕暮れにはまだ間があった。けれども、美禰子は少し用があるから帰ると言う。
美禰子は今晩、兄と友人の男と三人で食事をすることになっていた。三四郎も、留められたが断って美禰子と一緒に外に出た。
三四郎にとって若い女と一緒に歩くというのはそんなに簡単ではなかった 。
三四郎はできるだけこの機会を長く引き伸ばそうと思った 。三 四郎は曙町を 一回リしようかと誘ったが 、美禰子は断って 一直線に大通リに出た 。美禰子は、時間を気にしているようだ。
「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」
と三四郎は聞いた 。
「私?」
と美禰子はまた言った。美禰子はかつて長い言葉を使ったことがない。大抵の応対は、一句か二句で簡単に済まている。それでいて三四郎の耳には一種の深い響きを与える。美禰子の言葉には、他の人には聞けない色が出ている。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。
「私?」
と言った時、半分ほど顔を三四郎に向けた。二重瞼の切れ目から男を見た時、その眼には暈(かさ)を被っているように見えた。頬の色も少し蒼い。
「色が少し悪いようです」
「そうですか」
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250623