一 エネルギーの賛美
前書き(夜陰の閑談)にある部分で、「(略)成仏などは嘗て願ひ申さず候。七生迄も鍋島侍に生れ出で、国を治め申すべき覚悟、胆に染み罷り在るまでに候。気力も器量も入らず候。一口に申さば、御家を一人して荷ひ申す志出来申す迄に候。同じ人間が誰に劣り申すべきや。惣じて修行は、大高慢にてなければ役に立たず候。我一人して御家を動かさぬとかからねば修行は物にならざるなり。(略)(九七貞)と言っている。
「葉隠」は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人問のエネルギーが、エネルギー自体の原理に従って、大きな行動を成就するところに着目した。エネルギーには行き過ぎということはあり得ない。獅子が疾走していくときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜならば彼が獅子だからだ。
これが、人間の行動の大きな源泉的な力になっているというところに、常朝は目をつけた。もし、謙譲の芙徳のみをもって日常をしばれば、その日々の修行のうちから、その修行をのり越えるような激しい行動の理念は出てこない。それが大高慢にてなければならぬといい、わが身一身で家を村負わねばならぬということの裏づけである。彼はギリシャ人のようにヒュプリス(傲慢)というものの、魅惑と光輝とそのおそろしさをよく知っていた。
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240727 P38