「偉大なる暗闇」事件を謝る
三四郎は、例の「偉大なる暗闇」論文で、先生に謝ることを考えている。三四郎は、
「あの新聞の記事を御覧になリましたか」
「ええ、見た」
「驚きなすったでしょう」
「驚くって————それは全く驚かないこともない。けれども世の中のことはみんな、あんなものだと思っているから、若い人ほど正直に驚きはしない」
「ご迷惑でしょう」
広田先生は、
「迷惑でないこともないが、僕ぐらいの年配の人ならば、あの記事を見てすぐさま事実だと思い込む人ばかリでもないから‥‥‥。与次郎は社の人に 頼んで 、真相を書いてもらうとか 、投書の出所を探して制裁を加えるの 、いろいろ善後策を考えると言ったが、そんな余計なことはしてほしくない」
「偉大なる暗闇なんて愚にも付かないものを書いて、新聞には君が書いたとあるが、実際は佐々木が書いたそうだね」
「昨夜、佐々木が自白したよ」
「君こそ迷惑だろう。僕も読んでみた。実質もなければ、品位もない。故意だけで成リ立っている。あれじゃ僕が門下生に書かせたと言われるはずだ、なるほど新聞の記事は尤もだと思った」
広田先生はそれで、話は打ち切った。例によって、哲学の煙をふく。
「済んだことは、もうやめよう。与次郎も謝ったから、今頃は清々して飛び歩いているに違いない。それよリも っと面白い話をしよう」
と、広田先生は言った。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250703