髭の中年男
三四郎は車内に入リ席に座ったが 筋向こうの男に見られた時、何となく極まリ が悪か った。本でも読もうと思いカバンを開けたら、ベーコン の論文集が出てきた。三 四郎はベーコン の二十三頁を開いた。しかし頭の中は昨夜のことでいっぱいである。一体あの女は何者だろうか。あんな女が世の中にいるもんだろうか。女というものは、あんなに落ち着いて平気でいられるものだろうか。大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。思い切ってもう少し行ってみるとよか った。でもなん となく恐ろしい 。別れ際に「あなたは度胸がない方だ」と言われた時には吃驚した。二十三歳にもなって弱点が一度に 露見したような気持ちだ。
あれほど狼狽しちゃ、学問も大学生もあったも のじゃない。甚だ人格にも関係してくる。すると 無暗に 女に 近づいてはいけないことになるが、何だか意気地がないようだし、非常に窮屈だ。
ひょいと頭を上げてみると、さっきの男がまた三 四郎の方を見ていた。髯を濃く生やしている。面長の痩せぎす の、どこ となく神主じみた男である。ただ、鼻筋がまっすぐ通っているのが西洋らしい。学校教育を受けている三 四郎が見ると、教師みたいだ。男は白地の絣(かすり)の下に、白い襦袢を重ねて、紺足袋を履いていた。この服装から見ると、どうやら中学校の教師のようだ。この男は四十くらいで、この先もう発展はなさそうだ。
男はしきリに煙草をふかしている。長い煙を鼻から噴出し、腕組みして悠然としている。時々便所に立つが、その際に背伸びをして、さも退屈そうである。男は軽く挨拶して「君は高等学校の生徒てすか」と聞いた。三四郎は「ええ」と答えた。「東京の?」と男が聞くと、三四郎は「いえ、熊本です。...... しかし・・」と言ったなリ黙ってしまった。相手は「はあ、そう」と言ったなリ、煙草をふかしている。
今度は、三四郎から「あなたはどちらへ」と聞いてみた。「東京」と言っただけである。
どうやら中学校の先生らしくなったが、三等車に乗っているくらいだから、大した先生でもなさそうだ。前の席が空いたので三四郎はその席に移リ‘髯の男と隣合わせになった。
男は窓から首を出して水蜜桃を買っている。やがて「食べませんか」と言うので、礼を言って一つ食べた。
その男の説では、桃は果物の中で一番仙人めいているそうだ。また、子規は果物が大好きで、いくらでも食える男だったということだ。三四郎は笑って聞いていたが、子規の話だけに興味を覚えた。そのあと、豚の葬のこと、レオナルト・ダ・ヴィンチと桃のことなどを話した。やがて男は「東京はどこへ」と聞き出したので、三四郎は、熊本の高校を卒業して大学に入るのだと答えると
「それで、科は?」
「一部です」
「法科ですか」
「いいえ、文科です」
「はあ、そリゃ」
男はさも平凡なことのように言った。
浜松で‘窓から見ると、西洋人の夫婦が列車の前を行ったリ来たリしている。三四郎はすっかリ見とれていた。自分が西洋に行って、こんな人の中に入ったら定めし肩身が狭いだろうと思った。例の男が「ああ美しい」と小声に言って「とうも西洋人は美しいですね」
と言った。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250402