解説 この日の美禰子の行動

原文では、ニ四郎のこの日の行動が、読者に逐一知らされているが、美禰子が池の上に現れる前の行動は、一切知らされていない。しかし、後の章を読むと、ここに二重、三重の伏線が隠されていることがわかる。
そこで、美禰子が何故この日、大学構内の池の上を散歩していたのか、その行動を辿ってみたい。
これは
第6章ー運動会のあと丘の上で. 三四郎と話す会話
第7章ー広田先生と原口さんとの会話
第10章ー原口画伯のアトリエを出ての帰り道で話す会話
との関連がある。
即ち、この第2章では、全然触れられていないが、伏線となって隠れているのである。
①美揺子のその日の直接の目的は、第6章に書いてあるように東大病院に入院している親戚の見舞いに来たのである。しかし、病院の中があんまり暑いので、見舞いの後、すぐ病院を出て看護婦に案内してもらい池の辺りを散歩していた。その時に、たまたま団扇を病院から借りて、そのまま持っていた。
② 大学病院に見舞いに行くのなら、野々宮さんに出そうと思っていた手紙を、ついでに理科大学の実験室を訪ねて、直接手渡すことにした。幸い野々宮さんは実験室にいたが、忙しそうだったので、ちょっとだけ会って手紙を渡した。彼はそれをちょっと眺めたが、すぐ無造作にポケットに突っ込んだ。
③美瑚子はかねがね原口画伯に自分をモデルにした肖像画「森の女」を描いてもらおうと思い、その背景となる森の場所を探していた。看護婦にどこか良い場所はありませんかと尋ねたら、看談婦はそれならばと、池の端の「椎」の木が鬱蒼としている森に案内してくれた。またその時の服装は、夏の単衣(ひとえ)の和服であった。何故、美禰子は自分の肖像画を描いてもらおうと思ったのか、その意図については、自分の見合い用のつもりであった。これは、日本近代絵画史とも関連するので、別に述べるとする。
以上、三つの伏線が隠されていた後に、三四郎と池の端で遭遇したのである。
三四郎が、ふと眼を上げると、着物姿の女が看護婦と一緒に池の上の丘に立っている。
女は夕日に団扇を蒻して夏の着物姿である。これは正に美禰子が肖像画「森の女」を原口に描いてもらうために自らポーズを取っていた所、四十八頁地図のA地点である。美禰子は絵画のセンスがあるからこの夕陽の光の方に向いたポーズや背景が眼に刻まれている。
この時、下の池の端に佇んでいた三四郎に気がついて、用もない振りをして下りてきたが、偶然にも二人の視線が合い、その瞬間が両者の目に焼きついたのである。
美禰子は詩人であり、鋭い感受性の持ち主であるから一瞬自分でも理解できない不可思議な衝撃を受けた。美禰子は、昨晩に嗅いでいた白い花を三四郎の前で落としていった。
美禰子は、三四郎との出逢いの光景を、後々まではっきりと覚えている。
しかし、美禰子には意中の人として、野々宮という存在があった。ただ、野々宮の態度はこの時まで煎え切らず、はっきりと意思表示はしていなかった。
野々宮のポケットからはみ出していた手紙は、美禰子から渡された誕生会の招待状である。美禰子は誕生会で、自分はもう適齢期を過ぎようとしていることを知らせて、早く結婚してほしいと暗に示している。野々宮は既に大久保に一軒屋を借りている(第3章)ので結婚の準備もできていると判断していた。とにかく、野々宮は、美硼子の誕生日に招待されたのでプレゼントとして蝉の羽根のリボンを買ったのである。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250415