
解説 日露戦争後の日本
日露戦争は明治一二十八年(一九〇五年)に終結し、この小説はそれから三年後のことである。漱石は、日露戦争に勝ってからの日本の将来に大いなる危惧を抱いていた。まさに、日本は日露戦争によって疲弊しきっており、広田先生の言う「こんなに弱っていては……」の状態であった。
目露戦争は日本洵洵戦など華々しい戦果の末に大国ロシアに勝利し、晴れて日本は一等国の仲間として世界にデビューしたわけだが、その内実は賠償金など得たものは殆どなく、おまけに多額の借金を抱え込んで、多くの人命の血を流したあげく国力は消耗してしまった。
これ以上戦争を継続できないというギリギリのところで、米国ルーズベルト大統領が仲介の労をとり、なんとか日本の勝利という形でポーツマス講和条約を締結した。
フライ級の日本がヘヴィー級のロシアに挑んで血みどろに闘った結果、事実上は痛み分けに等しい試合を米国の審判によって辛うじて判定勝ちを拾ったようなものである。しかし、勝ちは勝ちとして国際的に認められたので、実情をよく知らされていない国民は一等国意識のみが昂揚していった。しかし、他方で勝利の配当の少なさに国民の不満は爆発し、戦争のツケのみが重税によって国民にしわ寄せされた。
このように当時の日本は内外の矛盾を抱えながら一等国としてのメンツを保っために国民の犠牲のもとに、列強と張り合って軍事大国への道をまっしぐらに進んだのである。
司馬遼太郎は小説『坂の上の雲』で、日本が東洋の小国から明治維新によって近代国家に発展し、遂には目指していた「坂の上の雲」を掴む、その象徴として日露戦争の勝利を描いた。この物語は、近代同家として世界の一等国の仲間入りを果たす明るい希望に満ちた明治同家の光の部分を映している。それは、つまり日本という小国から世界を見た発展物語であった。
一方、漱石の視点は全く逆であった。世界から見た日本という視点で、東洋の小国の危うさを、世界の中心地ロンドンから眺めていた。漱石は、明治三十三年(一九〇〇年)に国費留学生としてロンドンに赴任し約二年間滞在していたが、西欧の近代技術や文化に接して、その圧倒的な格差に驚き、日本はすでに周回遅れのランナーであることを直感していた。また単に技術や文化だけではない。街を闊歩している西洋人(白人)の容貌は自信に満ちており、堂々たる体格や白肌の美しさを見ると、極東の小国から来た黄色肌で背の低いアバタ面の自分(漱石)の醜さは、どうにも越えられない人種の違いを感じたのである。
広田先生の「西洋人は美しいですね。日本人はお互いに憐れだな.. . 」という言葉はこの漱石の実感がこもっている。
漱石の日には既に「坂の上の雲」が暗雲に変わり、日本が下り坂を転げ落ちていく途上だと映った。この先をさらに突き進めば日本は、「亡びるね……」というほかなかったのである。それでは、「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……日本より頭の中が広いでしょう」と言って、「囚われちゃあ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」と言ったのは、何を意味するのだろうか。
これは文字通り、日本(物理空間)と頭の中(認識空間) の比較である。囚われない柔軟な頭脳の認識空間は無限である。もっと客観的な思考ができるよう、古今東西の書物から得られる無限の知識や、思想を学べという三四郎(日本) への警告である。
日露戦争に勝ったあと、日本はいくつかの選択肢があったが、一等国意識に囚われすぎた。その結果、列強と同じ帝日主義的植民地獲得を拡大する富国強兵策を国家方針として選択したのである。日本の国力としては、分不相応な選択であったが、そのために無理に無狸を重ねた膨張政策で韓国併合、満州国建設へと走り、全世界を敵に回して孤立の道を歩み、遂には太平洋戦争で破滅した。
つまり、漱石(広川先生) の「亡びるね」という野告が的中して昭和二十年(一九四五年)に日本帝国主義は亡んだのである。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250404