薩摩藩の武士だけで作った「蒸気機関」
このように、江戸時代の終わりから明治の初めにかけての「科学技術の導入」の様子は日本特有のものでした。このことは「なぜ、日本だけがアジア、アフリカの国の中で一カ国だけ独立したのか」という謎を解く基礎的な知識になるので、もう少し具体的に整理してみましょう。
江戸時代の終わりの1851年のこと。薩摩藩の当主、島津斉彬(しまづなりあきら)はオランダ人フェルダムが書いた蒸気機関の技術書を翻訳させ、その本をもとにして江戸屋敷で蒸気機関の試作を命じます。
なにしろ、日本人が見たこともない蒸気機関ですから、試作するといっても見当もっきません。おまけに高い温度と圧力が必要な蒸気機関ですから、材料は鉄です。まだ日本には韮山(にらやま)の反射炉などわずかな製鉄設備しかなかったので、試作することすら容易ではありません。
しかし、薩摩藩の武士は苦心惨憺(さんたん)しながら解説書を独力で読み、実に薩摩藩の武士だけで「蒸気機関」というものを製作したのです。この蒸気機関はもともと12馬力のものでしたが、シリンダーや弁から蒸気が漏れて、現実には2馬力ほどしか出なかったと記録されています。
どうにか鉄を手に入れて本体ができても、潤滑油は必要ですし、圧力がかかるところではパッキングなども必要になります。ゴムや機械油などがない時代にそれを入手するのは大変なことだったのです。
しかも、近代科学は皆無で、侍が日本刀を腰に差していた時代にあって、海外渡来の簡単な図面だけを頼りに蒸気機関を作り上げる頭脳の柔軟性、非凡な才能に驚嘆せざるを得ません。もちろん、そんなことができるのはアジアの中でも日本しかありませんでした。
いや、むしろ世界でも稀な国だったとも言えます。ちょうどペリーが浦賀に来た頃、ヨーロッパ、トルコ、そしてロシアは}「クリミア戦争」という激しい戦争をしていました。この戦争の詳細は割愛しますが、最終的にはロシアがイギリス・フランス・トルコ連合軍に敗北します。その敗北のもっとも大きな原因は、産業革命が終わって蒸気機関などを持っているヨーロッパ軍と、相変わらず馬車などを使っていたロシアとの技術力の差でした。
先ほど紹介したように、薩摩藩が蒸気機関の試作を始めたのが1851年で、クリミア戦争が1853年に始まっています。当時のロシアはイギリスとはそれほど交流はありませんでしたが、フランスとは深い関係にありましたから、産業革命の嵐は十分にロシアにも達していました。それなのに、1853年のペリー来航の2年前にすでに日本では蒸気機関の試作が始まっていたのです。
このような「進取の気性を持つ日本人」が、その後の日本の命運を決めていったのです。小さな東洋の「遅れた国」日本が、世界一の陸軍を持つロシアに勝ったのも偶然でないこともわかります。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R0720250902