美禰子と三四郎は銀行へ
二人は半町ほど、無言のまま歩いた。三四郎はその間‘始終美禰子のことを考えた。この女は我侭(わがまま)に育ったに違いない。万事自由に振舞う。自分と一緒に往来を歩くのてもわかる。若い兄も放任主義なのだろうか。しかし、旧式のところもある。そのうち本郷通リに出た。四丁目の角を二人とも無言で曲がった。
「どこへいらっしゃるの」
と女は聞いた。
「あなたはどこへ行くんです」
と三四郎は至極真面目である。二人は顔を見合わせた。女はおかしくなって白い歯を少し現わした。
「一緒にいらっしゃい」
と言って、四丁目の角を切通しの方へ折れ、三十間ほと行くと右側に大きな西洋館があった。美禰子は帯の間から薄い帳面と印形(いんぎょう)を出して、
「お願い!」
「何ですか」
「これでお金を出してきて頂戴」
帳面には小口当座預金通帳、里見美禰子殿と書いてある。
「三十円!」
と金高を言った。美禰子はいつも銀行に行き付けているようだ。美禰子は自分の銀行預金を持っていた。実は兄から里美家の財産相続を受けていたのである。兄は自分の結婚の時のために、美禰子にも結婚の持参金を渡していた。三四郎が受け取って出てきたら、美禰子は待っていない。三四郎が追いついて、渡そうとポケットに手を入れたら、美禰子は、
「丹青会の展覧会をこ覧になって」
と招待券を二枚見せた。美禰子は、原口から貰った招待券で三四郎と行こうと二枚用意してきた。
「行って見ましょう。私、見ておかないと原口さんに 済まないのです」
と言って、美禰子は、
「あなた、原口さんをご存じなの?」
「広田先生の所で一度会いました。あなたの肖像画を描くと言っていました」
「ええ、高等モデルなの」
と、女は少しおどけた言葉で言った。三 四郎はこれ以上に気の利いたことが言えないので黙ってしまったが、女は何とか言ってほしかった。三四郎は、ポケットから通帳と印形を出して渡したが、金は受け取らない。
「預かっておいて頂戴」
と言った 。三四郎は往来で争うのは嫌いなので、仕方なくまた収めた。妙な女だ。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250609