
ポイント
髯の男は、
「お互いに憐れだなあ‥‥‥こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても‘庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが‥‥‥あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。
今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよリ他に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々がこしらえたものではない」
と言って、またにやにや笑っている。
三四郎は日露戦争以後、こんな人間に出会うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
三四郎は「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので「亡びるね」と言った。
「日本が亡びる」と聞いて三四郎は一瞬耳を疑った。
熊本でこんなことを口に出すと、すぐ殴られる。悪くすると国賊扱いにされる。三四郎には信じられないことだ。何処にもこのような思想を受け入れる余地のない空気の中で成長した。
男は例の如くにやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでも落ち着いている。
黙っていると、またこう言った。
「熊本よリ東京は広い。東京よリ日本は広い。日本よリ・・日本よリ頭の中が広いでしょう」
「囚われちゃあ駄目た。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒しになるばかリだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たんだと実感した。同時に熊本にいた時の自分は卑怯であったと悟った。
ここは第1章の最大のポイントである。おそらくこの当時、日本が将来「亡びる」と警告したのは漱石が初めてではないだろうか。
髯の男とは、後の章に出てくる第一高等学校の英語教師広田先生のことである。
漱石はこの広田先生の言築を通して日本の将来を「亡びる」と警告した。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250403