『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)
はじめに
『三四郎』は夏目漱石の小説の中でも「こころ』や「 坊っちゃん」と並んで、最も人気の高い小説である。おそらく本書を手にする多くの方は、『三四郎』を一度は読まれたのではないだろうか。
研究者の間でも、『三四郎』は色々な読み方をされて、ま さに百人百色の研究書が出版されている。また 一般の読者でも初めて読んだ年齢によって、感じ方はかなり違うであろうし、二度、三度と読み返せ ば、さらに 色々と新たな発見が出てくるような不思議な小説である。
いずれにせよ、どのような 読み方をしても正しいと言われている小説で、読み手によって自在に変化していく 、万華鏡のような、最も完成された小説ではないだろうか。
さて、『三四郎』は明治四十一年九月一日から朝日新聞に連載小説として掲載された。
東京帝国大学講師を辞して、朝日新聞社に入社した漱石が、新聞連載小説を 書き始めてから第三作目の作品である。前の二作『虞美人草』と『坑夫』は漱石にとって、必ずしも満足のいく作品ではなかったと言われ、『三四郎』はかなり周到な準備と構想を練っていた。文体も一般の読者が読みやすい平易な文章で、現代の我々でもなんら痛痒なく読める。
また、新聞掲載のタイミン グも計算されていた。九月一日とは、当時の大学の新学期が始まる時期である。物語は主人公の三四郎が、熊本の第五高等学校を卒業して、東京帝国大学に入学するために上京する汽車の場面から始まった。明治という時代は、近代国家建設の時代で、地方の優秀な学生たちが、東京の大学を目指して 上京することが多かった。これらの学生たちは、同時進行で毎日連載される小説『三四郎』の主人公に自分を重ね合わせ、我がことのように読みふけったという。また当時の大学進学を目指す高校生達にとっても、三四郎は憧れの的であった。
この小説は、題名が示すように主人公の三四郎から見た東京という大都会や 、また東京帝国大学の様子、さらにそこで出逢った近代女性・美禰子との淡い恋愛関係など、三四郎という青年の初恋を描いた「青春小説」という読み方が一般的である。
しかし、またこれは「森の女」をモチーフとした「絵画小説」であるという読み方をする研究者(芳賀徹)もおられる。ともかく、読者によって様々な読み方が可能である 。
そこで、本書では箪者なり の読み方でこの『三四郎』に 迫ってみることにした。
それは、女主人公の「美禰子」を中心に据えて『三四郎』を読んでみたらどうなるだろうかという試みである 。そ のために構成も少し変えてみた。
先ず、原文にはない「序章」を設けて、美禰子及び主要登場人物の素性や、人間関係をすべて明らかにしておくこと、また明治の後半、特に日露戦争後の日本の社会状況という背景、さらに女性の地位、結婚状況などを確認しておくことから始めることに した。
漱石の小説は、最初、登場人物の名前を明かさず、その人物の状態や状況を形容した代名詞(髯の男)などで示し、ある程度進んだところで、徐々に名前が明らかに されていくのが通常である。人間関係もまた然りである。
しかし読者の大部分が既に一度は『三四郎』を読んだ経験者であれば、初めにこれらの前提条件を開示し、確認しておくことも許されるのではないかと思った次第である。その方が本書の趣旨である「気楽に愉しむ漱石入門 」にもかなっているし、また初めて読まれる読者にも、理解しやすいと愚考したのである。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250325