「自国語に翻訳する」という画期的な行動
このような特殊な日本社会がヨーロッパ文明と接したとき、他のアジア諸国と違い、日本の有識者は積極的にヨーロッパの学問や文化を「日本語に翻訳する」いう画期的な行動に出ました。
ほとんどの国民は外国語を読めなかったのですから、日本の常識では外国の書物を翻訳するのは当然だと思うでしょうが、当然と思うこと自体が「日本人が特殊である」ということを証明しています。
日本以外のアジア諸国は、ヨーロッパの学問や文化を吸収するために、英語やドイツ語を自国語に翻訳せず、そのまま外国語で読んでいました。その理由は、国の支配層しか外国語を読めませんので、彼らが欧米の学問や文化を独占しようとしていたからです。
日本以外の国で「国家」という意識が全然ないとも言えませんが、かなり弱いのです。
もともと幕末の日本では「開成所」と呼ばれる学問の中心があり、その中で物理、化学の重要性が議論されていました。しかし、実際には欧米の書物を読んだり、中国の翻訳書を参考にする程度で、江戸時代にはまだ日本人が自ら書いた本や翻訳書を作ることはできませんでした。明治維新の直後に、福澤諭吉が日本で最初の科学入門書『窮理(きゅうり)図解』を書いたときは、まだそのような状態でした。
江戸時代の翻訳書では杉田玄白の『解体新書』が有名ですが、当時は自然科学と言えば数学と医学だけでした。明治の初期になっても医学の著書や翻訳が盛んで、たとえば、明治元年には松山棟庵(まつやまとうあん)の『窒扶斯(ちぶす)新論』、大坂医学校発行のアントニウス・ボードインの講義録『日講記聞』や海軍病院刊行の『講延筆記』などがあって、その数も多かったのです。
医学や数学分野以外の書物が出てくるのは江戸開成所が大阪に移転し、神田孝平(かんだたかひらみ)や箕作麟祥(みつくりりんしょう)、田中芳男らの主カメンバーが大阪に行き、大阪府管轄の舎密局(せいみきょく)ができてからでした。
そこで、竹原平次郎が『化学入門』を翻訳し、大阪開成学校ではリッテルが教えたことを『理化日記』にまとめ、造幣関係で同じく大阪開成学校で教えていたオランダ人ハラマタの講義から『金銀成分』が出版されていました。石黒忠應が『化学訓蒙』の第二版を出したのもこの頃でした。現在の日本では、学問の中心が東京にあるので、明治の初期には大阪が化学などの中心だったということにビックリしますが、当時の日本は今より一極集中ではありませんでした。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R0720250831