「パリ講和会謙」での画期的な提案
いずれにしても、第一次世界大戦はドイツ・オーストリア軍が敗北し、日本はアメリカ、イギリス、フランスと同じく戦勝国になり、パリで行われた講和会議に出席します。
パリ講和会議は戦争後の処理が目的でしたから、各国の領土の確定、賠償金を決定するなどで、中心的な役割を果たしたのが当時のアメリカのウィルソン大統領でした。
この講和会議で、日本は歴史的にも画期的な提案をします。それが、「人種差別撤廃条項」でした。すでに歴史的なことですが、「そんな素晴らしい条項を提案したのか」と思うぐらいですが、なにしろ当時の世界は白人社会で、白人は人種差別を中心にして力を持っていたのですから、かなり思い切った提案と言えます。
そこで第一次世界大戦のあとの1919年の正月、パリについた日本全権団は人種差別撤廃提案をうまく進めるために各国に打診を始めました。特に問題と思われたのはアメリカでしたので、当時の駐英大使がアメリカのロバート・ランシング国務長官に会って打診をしたところ、思いがけなく抵抗が少なく、さらに、アメリカ大統領ウィルソンの友人に提案する規約の修正案として二つの案を示して意見を求めています。
この経緯は実に慎重で、日本はもっとも厳しく反対すると思われたアメリカが意外にも好意的だったことで安心したのです。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R0720250930