「バスティーユ監獄の襲撃」と「二〇三高地の歩兵の突撃」

ともあれ、巨大な既存勢力に対決して身を捨てて新しい時代を拓くとき、人の集団はどんなことになるのか、フランス革命の「バスティーユ監獄の襲撃」(1789年7月14日@パリ)と、日露戦争の「二〇三高地の歩兵の突撃」を例とし説明します。
上の絵はフランス革命のきっかけとなったバスティーユ監獄の襲撃事件ですが、王様の軍隊が守っているバスティーユ監獄に組織的に攻撃する訓練を受けていない市民が、銃や人によっては農具を持って襲撃しています。
普通なら市民のほうが負けるのですが、時代の流れはそれを超えて市民の勝利に終わったのです。

次に、歴史に残る激戦になった日露戦争の二〇三高地要塞の歩兵戦です。
なにしろ堅固な要塞から機関銃の弾丸が雨あられと降ってくるところを突撃するのですから、兵士はバタバタと死んでいきます。多くの兵士は子を持つ「お父さん」で、日本には家族や両親がいました。家族を必死に救おうと突撃をしたのです。
戦後、乃木希典将軍は兵士に無駄死にをさせたと批判され、将軍自身も二人の子供(二人とも将校だった)をこの戦いで失いました。もともと乃木は二〇三高知への突撃は損害が多くなるということで最後まで大本営に抵抗しますが、中央からの命令を受け、現地司令官として、兵士に「死ぬ」ことを命令することになったのです。
この戦いは、二〇三高地という要衝を奪ったことばかりではなく、いろいろな後日談があります。
その一つが旅順の戦いに続いて起こった奉天の会戦で、乃木の率いる第三軍が来るという噂がロシア軍に広まると、ロシア軍の指揮が急に落ちたと言われています。
戦いは後になったら「どちらの死者(損害)が大きかったか」が関心事ですが、戦っているときには「どちらが勝ったか」だけが問題です。いくら損害が大きくても敵を全滅させたら、させたほうの勝ちです。
事実は勝った日本軍の損害が1万5000人、負けたロシア軍が1万6000人でした。戦後、冷静になって計算したらわずかに日本軍の損害が少ないのですが、ともかく戦闘で死んだ日本兵が多かったので、「大きな犠牲を出した戦い」と思われています。
奉天のロシア軍は乃木の第三軍が到着すると聞いて、「殺しても殺しても突撃して来る。やがて最後は俺が死ぬ」と思って戦意を喪失したのです。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R0720250924