日本だけがょ独立々を守った!
ところで、19世紀の終わり頃、新大陸だったアメリカも力をつけてヨーロッパと同じ仲間入りをした結果、世界は「スペイン」「ポルトガル」「オランダ」「イギリス」「フランス」「ドイツ」「ロシア」「アメリカ」の8カ国でほとんどすべての国を支配するという異常な状態になっていました。
細かく整理すると少しの時間的なズレがあるのですが、簡単に言うと世界はこの8カ国に支配されていました。支配されなかった国は、アフリカではエチオピア、アジアではシャム(現在のタイ王国)、支那(現在の中華人民共和国)、そして日本のたった4カ国になっていました。
なぜ、この4カ国だけが支配されなかったのでしょうか。
この4カ国がヨーロッパの植民地にならなかったのはそれぞれの事情がありました。
まずエチオピアはアフリカの国で、1885年にヨーロッパ人だけでベルリンで開催された「アフリカ分割会議」でヨーロッパのどこかの国が占領するはずだったのですが、風土病がものすごく、エチオピアに足を踏み入れたヨーロッパ人がどんどん風土病にかかって死んだので、誰も入りたがらなかったという状態でした。
次にシャムですが、西からイギリス、東からフランスが迫り、普通に行けば分割されるところでしたが、シャムのチュラロンコン王家が外交上手だったこと、イギリスとフランスがアジアで直接対決するのを避けて緩衝地帯として残したという経過をたどりました。
また、支那はこれほど国の多いアジア・アフリカで「白人側に寝返った」唯一の国でした。フィリピン、ベトナム、インドネシア、インドなどは、国が小さく軍隊もほとんど人がいなくても、ヨーロッパ人が来ると果敢に抵抗しましたが、結果的には戦闘に敗れ、殺され、ついには植民地になりました。
しかし、支那だけは「アヘン戦争」でイギリスと小競り合いをして、死者を2000人程度出しただけで、後は、
①白人が領土をくれと言えば、抵抗せずに、天子(皇帝)が土地をあげればよい(国民はどうでもよい)
②戦争があれば白人側につく、という原理原則でヨーロッパ人の攻撃に対して国を保ってきました。
だから、20世紀の支那(当時の清王朝)の支配は、「清王朝の領土」と言っても、南方はフランスとイギリス、チベットはイギリス、北の方はロシアで、支那の支配は揚子江(ようすこう)から黄河流域の狭いところしかありませんでした。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R0720250826