初代海軍卿.勝海舟
明治政府になって海軍卿(大臣)に返り咲いた榎本武揚、初代海軍軍令部長・中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)、大将で海軍卿・川村純義、初代海軍機技総監・肥田浜五郎、初代軍医総監•松本良順などはみなこの伝習生で、第一期伝習生の学生長が勝海舟でした。
さらに施設としてはこの伝習所が後に戦艦武蔵などを建造した三菱重工長崎造船所に発展するのですから、人としても、施設としても日本海軍の礎になったとも言えます。
このときの様子を、日本に長く駐在したオランダの技師カッテンディーケ卿の『長崎海軍伝習所の日々』には次のように記されています。「日本人の悠長さと言ったら、あきれるぐらいだ」ー。なにしろ浴衣のような単衣物に羽織のようなものを着て、二本の刀を腰に差して伝習を受けるのですから奇妙な姿です。作業の合間に甲板で小便をする姿はオランダ人には野蛮に見えたでしょう。
ともかく、長崎での伝習は続き、いよいよ1857年4月、日本名「観光丸」と命名されたスームビング号が江戸表へ回航されるときが訪れます。
永井尚志を艦長として103名の伝習生が乗り組み、日本人がオランダ人の助けを受けることなく単独で洋式軍艦を操舵して、江戸に回航したのです。
初めて蒸気機関を見て、鉄で作られた「黒船」に驚嘆してから4年、伝習所で急ごしらえの教練が始まってからわずか2年。東洋の端にあるこの小国のサムライが、ヨーロッパ人の助けを一切受けることなく、蒸気駆動の軍艦を回航するなどということは常軌を逸していました。日本以外のアジアの諸国なら、選抜されたメンバーであってもおそらく蒸気船を怖々と遠巻きにしていたことでしょう。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R0720250904