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日本を潰そうとする強大な勢力に、対抗するために、、、、

野々宮宗八のモデル 『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦より

野々宮宗八のモデル

① 寺田寅彦
寺田寅彦は明治十一年、東京麹町生まれ。物理学者・随箪家・評論家・俳人。「天災は忘れた頃にやって来る」は物理学者として寓彦の有名な警句である。
明治二十九年に熊本第五高等学校入学。生涯の師となる夏目漱石(英語)と田丸卓郎(数学・物理)の授業を受けた。翌年、漱石の宅を訪ねた時に俳旬に興味を持ち、その指導を受けた。
以後、漱石の門下生として文学的な影押のみならず、人生全般に亘って薫陶を受けたが、一方、漱石も、科学に関する興味があり、寅彦から提供される科学の話題や知識を小説の中に取り入れた。有名なのは『吾輩は猫である』の水島寒月と『三四郎』の野々宮宗八のモデルとして知られている。

②犬塚武夫
しかし、ほんのわずかだが、野々宮宗八には、もう一人のモデルが顔を出すのである。      (59)
第2章では、三四郎が故郷の母からの手紙で「勝田の政さんの従弟に当たる人が大学校を卒業して…… 」と、野々宮宗八という人物を訪ねるように勧められた。この故郷にいた「従弟(いとこ)」に着目すると、三四郎のモデル・小宮豊隆には、実際に従兄の犬塚武夫という人物がいた。犬塚は、福岡県京都郡から上京し、東京高商(現・一橋大学)を卒業して、漱石のロンドン留学中に、ロンドンで漱石と同じ下宿に住んでいた。ちょうど漱石が神経衰弱に苦しみ、下宿に龍もっていたのを気の毒に思い、下宿の主人、リール夫人と二人で漱
石に気晴らしのため自転車乗りを勧めた。この時、犬塚は、自ら自転車稽古の監督兼教師を勤めた間柄である。
この間のユーモラスで自虐的な自転車稽古風景は、漱石が後に『自転車日記』として日本に送り『ホトトギス』に掲載された。また、犬塚は豊隆を漱石に紹介した人物でもあった。
漱石は、この犬塚が既隆の従兄にあたる関係をちょっと利用して野々宮とするが、野々宮の上京後は直ぐに寺田哀彦にすり替えている。このすり替えは巧みである。    (60)

『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)  R0720250417
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