運動会
あくる日は好天気であった。朝のうちに銭湯に行った。板の間に三越呉服店の看板があリ綺麗な女が描いてある。どこか美禰子に似ているが、よく見ると目付きが違うし、歯並びがわからない。美禰子の顔で最も三四郎を驚かしたものが、目つきと歯並びである。与次郎によると、あの女は反っ歯(そっぱ)の気味だから、ああ始終歯が出るんだそうだ。三四郎には決してそうは思えないが、湯に浸かってこんなことを考えていた。
三四郎はあまリ運動好きではないが、運動会を見に行くことにした。与次郎から、競技よリ女を見に行くことに価値がある、美禰子もよし子も来るだろうと聞いていた。
しかし残念なことに行ってみると婦人席は別に柵で囲まれていた。どこかにいるだろうと見たら、前列の一番柵に近い所に二人は並んでいた。決勝点は美禰子とよし子が座っている真正面である。選手は一生懸命走っている。二人は熱心に競技を見ていた。計測係が黒板に記録を書いた。見ると野々宮さんがフロックコートを着て颯爽と務めている。やがて、野々宮さんは黒板を離れて二人の所に近づいて‘向こうから柵を挟んで何か言っている。美禰子は立ち上がった。野々宮さんの所に歩いて行く。嬉しそうに笑いに満ちた顔で話を始めた。するとよし子がまた立って柵の傍に寄っていった。
芝生の中では砲丸投げや、色々な競技が始まった。やがて二人の女は元の所に戻った。
三四郎はつまらなくなって会場を抜け出し、裏の築山まで来た。幕が張ってあるので回ってから丘の頂上まて来た。大きな石があるので、腰掛けて下の池をぼんやリ眺めていると、さっきの二人が並んで丘の裾を通っている。三四郎は上から二人を見下ろしていたが、やがて二、三歩降リていった。よし子が三四郎に気が付き、
「あんな所に‥‥‥」
と驚いて笑っている。美禰子も止まった。三四郎を見た。しかし、その眼は何も訴えていなかった。火の消えたランプのようであった。よし子が下から
「何故、競技を御覧にならないの」
と聞いたので、
「つまらないからやめてきたのです」と言った。
「それよリあなた方こそ‘何故出てきたのです。熱心に見ていたじゃあリませんか」
と言った時、美禰子は初めて少し笑った。三四郎はその笑いの意味がよくわからない。美禰子が
「この上に何か面白いものがあって?」
と尋ねた。この上には石があって、崖があるだけで面白いものはある筈がない。三四郎は
「何もないです」
と言った 。美禰子は
「そう」
と疑いを残したように言った 。
「ちょいと上がってみましょうか」
とよし子が快く言う 。
「あなた、まだここをご存じないの」
と美禰子は落ち着いた態度に出た。
「いいからいらっしゃいよ」
とよし子は先に上る。美禰子と三四郎はついて行った。よし子は丘の上で足を芝生の端まで出して、振リ向きながら
「絶壁ね」
と大袈裟な言葉を使い 、
「サッフォー(庄1でも飛び込みそうな所じゃあリませんか」
と言っている。
「あなたも飛び込んで御覧なさい」
と美禰子が言うと
「私? 飛び込みましょうか。でもあまリ水が汚いわね」
と言いながら 、こちらに 帰ってきた 。
やがて、女二人の間に用談が始まった 。
(注 3)サッフォー
紀元前六一二年頃小まれの古代ギリシャの女流詩人。美少年パオンとの悲恋のために海に身を投げたと伝えられる。後の文学者が好んで素材としているが、その代表的な一つであるドーデの「サッフォー」は漱石の蔵書(英訳本)にある。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250525