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日本を潰そうとする強大な勢力に、対抗するために、、、、

解説 「森の女」と「池の女」 『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より




解説 「森の女」と「池の女」

森とは「神秘」「謎」「神や妖怪の住む場所」の象徴で、女の魔性の象徴かも知れない。しかし、ここでは当時の日本近代西洋画で流行っていた、自然や森を背景として描かれた、ラファエル・コランの流れを汲む日本洋画家の女性の肖像画を総称して「森の女」と言われていた。
美禰子は、この「森の女」の中に三四郎との出逢いを記念する、あの日の服装で団扇を賢したポーズを描いた。描かれた姿は、三四郎しか知らない二人だけの思い出である。美禰子の夫も、原口も、広田先生も、野々宮も、与次郎も知らない。
三四郎は、出逢いの日から、美禰子を「池の女」としてずっと想い続けてきた。「森の女」とは思ったことがない。展覧会で出された肖像画が「森の女」という題ではどうしても受け入れ難いことであった。しかし、誰にも言うことはできない。
口の中で「ストレイシープ」「ストレイシープ」とただ繰り返すほかはなかった。これからも迷える羊が、二人の姿であると‥‥‥。
美禰子は、三四郎に出逢うまで、西洋の先進的文化を吸収した本郷知識人の文化的環境の中で育ってきた。
三四郎は九州の後進的な文化圏から出てきたばかりである。
美禰子が口にする聖書の言葉や、英語、西洋絵両などは、三四郎にとって時に、不可解な謎の言葉であったり、愚弄されたと思うような屈辱を感じた。
しかし、美禰子は三四郎を愚弄するつもりはなかった。三四郎が急に異文化に接したため、戸惑っただけである(あたかも漱石がロンドン留学で戸惑ったように)。
美禰子の心はむしろ天性の悪意のない、親しさで接していた。三四郎の心の優しさも感じていた。
また、「ヘリオトロープ」と「池の女」では二人の気持ちが通じ合った。
野々宮は、同じ文化圏に属していたので、文化の壁はなかったが、世界的に有名な学者だけに研究に没頭し、美禰子の住む世界ではないことがわかり、結婚を諦めた。美禰子の心を引き裂いたのは、明治の日本帝国主義下の経済事情であり、民法制度であった。西洋の自由独立の思想に対して、女性は禁治産者同様に経済的独立を禁止され、女は男に服従するのが当たり前といった男女差別の思想を、相当な知識人でさえ持っていた。女性の、自
由思想に対して明治社会は抵抗が強かった。
美禰子は兄が結婚したら、自分は、菊人形展の時に見たような、親もいない路頭に迷う、迷子(ストレイシープ)と同じになり、また道路でお貰いを待っという乞食と同じ境遇(誰かが嫁にもらってくれるのを待っ身)だと思った。
美禰子は信仰によって愛のある結婚を望んでいたが、兄の結婚、自分の年齢を考えると時間はないという板ばさみの中で、兄から紹介された友人と急速、結婚せざるを得なかった。相手は、よし子がその前に断ったばかりの男であり、当然、それは愛のある結婚とは言えなかった。
漱石の『三四郎』という小説は、明治近代国家の発展の中で、成長していく青年の彷徨を書いたものである。
しかし、同時に、日本が帝国主義国家として、一等国意識に囚われながら、徐々に「亡び」の道へ進んでいることへ警告を発し、さらに、家族制度、相続制度、男女差別など日本に残る後進性に就いても、美禰fという近代女性が、ヒ滑りする西洋化との狭間に引き裂かれていくという女性問題を取り上げた作者漱石の批判と読み取ることができる。

『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より  R0720250716

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