
第7章 広田先生と原口画伯
あらすじ 広田先生宅
三四郎は与次郎を訪ねて、広田先生宅に来た。裏から回って婆さんに聞くと与次郎さんは昨日からお帰リなさらないと言う。広田先生は書斎におられたので、書斎の入口で
「お勉強ですか」
と聞いた。先生は机に向かって何か書いていた。三四郎は
「実は佐々木君の所に来たんですが、いなかったものですから」
と言った。
、
「ああ与次郎は何でも昨夜から帰らないようだ。時々漂泊して困る」
与次郎は用事を成し遂げる男じゃない。ただ用事を作るだけだ。あれこれと気が移るので、浅くて狭い。ちっとも締リがないので困る、と言うのが先生の評価である。
実を言うと三四郎はこの間、与次郎に二十円を貸した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れるから、それまで立て替えてくれと言う話だった。まだ返す期限ではないが、先生の話を聞くと、何だか与次郎のことが少し心配になる。
しかし、先生にそんなことは言えないので、
「でも佐々木君は大いに先生に敬服して‘陰ては先生のためになかなか尽力しています」
と言った。先生は真面目になって
「どんな尽力をしているんですか」
と聞き出した。ところが「偉大なる暗闇」やその他のことは先生には話すなと口止めされているので、話をそらしてしまった。
三四郎が広田先生の家に来るには色々な意味がある。
一つは、この人の生活が普通の人と変わっている。特に自分の性情とは異なるところがある。どうしたらああなれるのか参考にしたい。
次にこの人の前に出ると呑気になる。世の中の競争があまリ苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく超然としているが、大きな研究目的のために俗世間の欲望を遠ざけているように思われる。自分も早く一人前になって学界のために貢献できるようになリたいとあせリが出る。
そこへ行くと先生は太平てある。高等学校で、ただ英語を教えるだけで何の芸もない。
しかも泰然と取リ澄ましている。そこに先生の呑気な源があるのだろう。
三四郎は、近頃‘或る女に囚われた。恋人に囚われたのなら、かえって面白いが‘惚れられているんだか、馬鹿にされているんだか‘怖がっていいんだか、蔑んでいいのかよすべきか続けるべきか訳のわからない囚われ方である。そういう時、先生に会っていると心が落ち着いてくる。
第三の理由は、これと大分矛盾している。
実は、今夜もそのことで訪問したのである。
三四郎は、今美禰子のことで苦しんでいる。美禰子の傍に野々宮さんがいると、なお苦しくなる。先生は野々宮さんと親しいから、何かわかるかもしれない。今夜は二人の関係を聞いてみようと思った。
「野々宮さんは最近下宿したそうですね。家を持ったものが、また下宿をすると不便だろうと思いますが・・・」
「そんなことには一向頓着しない人です。あの服装を見てもわかる。家庭的な人じゃない。そのかわリ学問にかけると非常に神経質だ」
「奥さんでもお貰いになるお考えはないんでしょうか」
「あるかも知れない。君がいい人を紹介してやリ給え」
三四郎は‘余計なことを言って藪蛇(やぶへび)になった。広田宣先生は、
「君はどうです」
と聞くので国の母は勧めるが、まだその気になれないと答えた。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250529