女の慄死事件
その時、遠い所で誰か、「ああああ、もう少しの間だ」という声がした。
三四郎の耳には明らかにこの声が、すべてに棄てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実の独リ言に聞こえた。三四郎は気味が悪くなった。そこへまた汽車が遠くから響いてきた。次第に近づいて孟宗藪の下を通る時には、前の列車よリ倍も高い音を立てて過ぎ去った。座敷の微動がやむまで茫然としていた三四郎は、石火の如く、さっきの嘆声と今の列車の響きとを一種の因果で結びつけた。そしてぎくんと飛び上がった。その因果は恐るべきものである。すると停車場の方から提灯をつけた男がレールの上を伝ってこっちへ来る。話し声ではどうも三、四人らしい。でも、言葉はよくわかった。
「もう少し先だ」
足音は向こうへ遠のいていく。三四郎は庭先へ回って下駄をつっかけたまま孟宗藪の所から土手を這い降リて提灯の後を追っかけた。
五‘六間行くかいかないうちに、また一人土手から飛び降リたものがある。
「礫死じゃないですか」
三四郎は何か答えようとしたが、声が出なかった。半町ほど来ると提灯が留まっていて、人が灯をかざしたまま黙っている。三四郎は無言で灯の下を見た。すると下に死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上まで見事に引きちぎって、胴を置き去リにしていった。顔は無傷である。若い女だ。
すぐ帰ろうとしたが、足がすくんで動けなかった。土手を這い上がって、座敷に戻ったら、動悸が打ち出した。水を貰おうと、下女を呼ぶと下女は何も知らないらしい。三四郎の眼の前にさっきの女の顔が見える。その顔と「あああああ‥‥‥」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでいるはずの無惨な運命とを継ぎ合わして考えると、人生という丈夫そうな命の根が知らぬ間にゆるんで、いつでも暗閉へ浮き出していきそうに思われる。三四郎は欲も得も要らぬほど怖かった。ただ轟という一瞬である。その前まで確かに生きていたに違いない。三四郎はこの時ふと、汽車で水蜜桃をくれた男が、「危ない危ない、気を付けないと危ない」と言ったことを思い出した。あの凄い死に顔を見るとこんな気も起こる。
ところへ野々宮から電報が来た。妹無事、明日帰るとある。安心して床に入ったが、四郎の夢はすこぶる危険であった。蝶死を企てた女は、野々宮に関係ある女で、野々宮はそれと知って家へ帰ってこない。ただ、三四郎を安心させるために電報だけくれた。妹無事とあるのは嘘で、今夜礫死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹は即ち三四郎が池の端で逢った女である。
三四郎はあくる日例になく早く起きた。昨晩のことがすべて夢のようである。飯を済まして新聞を読んでいると、野々宮君が帰ってきた。
三四郎は、昨夜、近くに礫死があったこと、自分が見たことなどをすべて話した。野々宮君は「それは珍しい。滅多にあえないことだ。僕も家におればよかった」と呑気なのに驚いた。
三四郎は、話題を転じて、病人のことを尋ねた。果たして病人に異常はなかった。野々宮君はこの忙しいのに大切な時間を浪費させる妹は愚か者だと言うが、三四郎には、それが理解できない。そういう時間こそが、毎日穴倉で光線を試験して暮らす人には必要ではないか。自分なら、この妹のために、勉強の時間が多少潰れてもかえって嬉しいくらいである。
野々宮君は、昨夜病院てあまリ眠れなかった。今日は午後から早稲田の学校へ行く日で、大学は休みだから、それまで寝ようと言う。昨夜は偶然、高等学校て教わった元の先生の広田という人が妹の見舞いにきてくれてみんなで話をしているうちに電車の時間に遅れて、つい泊まることにしたそうだ。三四郎はこれで広田さんの名前を三、四回耳にしている。そして水蜜桃の先生と、青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名前をつけている。帰る時に、ついでだから、午前中に袷(あわせ)を一枚‘病院まて届けてもらいたいと頼まれた。
三四郎は大いに嬉しかった。(74)
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250424