佐々木与次郎
その日は何となく気が鬱していたので、池の周リを回ることもやめて家に帰った。晩食後、母に言文一致の手紙を書いた。
学校は始まった。これから毎日出る。学校は大変広いよい場所で、建物も大変美しい。
真ん中に池がある。池の周囲を散歩するのが楽しみだ。電車には近頃ようやく乗リなれた。
何か買って上げたいが、欲しいものがあれば言ってくれ。それから、今年の米の作のこと、三輪田のお光さんのことなどをごたごたと並べて書いた。
翌日も例刻に学校に行って講義を聞いた。講義の合間に聞いたし昇之助の話が面白かったので熊本出の同級生に昇之助とは何だと聞いたら娘義太夫だと教えてくれた(注1)。そして今度の土曜に一緒に行こうと誘ってくれた。三四郎も何だか寄席に行って昇之助が見たくなった。昼飯を食いに下宿に帰ろうとしていたら、昨日のポンチ絵の男が来て、本郷の淀見軒という所でライスカレーを食わせてくれた。この男は佐々木与次郎と言って、専門学校を卒業して、今年また選科に入ったのたそうだ。
東片町の五番地の広田という高等学校の先生の家にいるという。
それから当分の間、三四郎は毎日学校に通って律儀に講義を聞いた。平均一週に四十時間ほどになる。いかに勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎は一種の圧迫を感じているが、何か物足リない。
ある日、佐々木与次郎に会ってその話をすると、四十時間と聞いて「馬鹿、馬鹿」といきなリ三四郎をどやしつけた。与次郎は、
「電車に乗るがいい。東京を十五、六回乗リ回しているうちに自ずから物足リるようになるさ」
と言う。「三四郎は何故」と聞き返した。与次郎は、
「生きてる頭を死んだ講義で封じ込めては助からない。外へ出て風を入れるさ。物足リる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ軽便だ」
と言った。
その日の夕方、与次郎は三四郎を連れて、四丁目から電車に乗って新橋に行き、新橋からまた引き返して日本橋へ来て、そこで降リて「どうだ」と聞いた。
次に大通リから細い横町へ曲がって、平の屋という看板のある料理屋へ上がって‘晩飯を食って酒を呑んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。表へ出た与次郎は赤い顔をして、次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、木原店という寄席へ上がった。ここて小さんという落語家を聞いた。十時過ぎに通リヘ出た与次郎は、また「どうだ」と聞いた。
三四郎は物足リたとは答えなかったが、まんざらでもなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。円遊も旨い。しかし、小さんとは趣が違っている。
高等学校の前で別れる時、三四郎は「あリがとう、大いに物足リた」と礼を述べた。すると与次郎は「これから先は図書館でなくっちゃ物足リない」と言って片町の方へ曲がってしまった。この一言で三四郎は初めて図書館に入ることを知った。
(注1 ) 娘義太夫と昇之助
若い女性が語る義太夫節(ぎだゆうぶし) 、またはその語り手。明治二十年、竹本綾之助の登場以来、娘義太夫は書生、学生の間で人気があった。十代の可憐な少女が日本髪にかんざしを揺らし、声を絞って語る姿に若者たちは熱狂した。「昇之助」とは豊竹昇之助(本名よね)のことで、明治三十四年に十二歳で、四歳上の姉昇菊とともに上京し、姉の三味線で義太夫を語り、一躍人気を得たという。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250420