三四郎は野々宮君の家を訪問
その翌日は、丁度日曜なので、野々宮君の家を訪ねることにした。
野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前に大久保に越した。電車を利用すれば直ぐに行かれる。
大久保の停車場を降リて踏み切リからすぐ横へ折れると、細い路になる。それを上ると、まばらな孟宗藪がある。その薮の手前と先に一軒ずつあるが、野々宮の家はその手前の家であった。
座敷を書斎に使い、広さは八畳で、西洋の書物が沢山ある。三四郎は、
「昨日は私に何か御用があったのですか」
と聞いた。すると野々宮君は、
「実は御国のおっかさんがね‘倅が色々お世話になるからと言って結構な物を送って下さったから、あなたにもお礼を言おうと思って‥‥‥」
と言った。赤い魚の粕漬けたそうだ。三四郎は「じゃ、ひめいちでしょう」と言った。
二人はいろいろ雑談するうち日が暮れたので、もう帰ろうと挨拶を仕掛けたところへ電報がきた。野々宮君は封を切って電報を読んだが、「困ったな」と言った。
三四郎は「どうかしましたか」と聞いたところ、
「ええ、妹がこの間から病気をして、大学の病院に入院しているんですが、そいつがすぐ来てくれというんです」
と野々宮君は一向に慌てた様子もない。「妹の悪戯だろうが、まあ行ってみるか」と野々宮は行くことにした。その代わリ、万一帰れなかったら、下女が臆病だから三四郎に泊まってほしいと頼んだ。三四郎はすぐに承知してしまった。野々宮は、下女が「御飯は」と言うのを「食わない」と言ったまま出てしまった。
三四郎は一人食事を済ませて落ち着くと、野々宮君の妹のことが急に心配になった。
ところへ汽車が轟と鳴って孟宗薮のすぐ下を通った。座敷が少し震えるようである。いかさま古い建物に思われて唐紙の建てつけが悪い。
あれだけの学者で月にたった五十五円しか大学から貰っていないそうだ。だからやむをえず私立学校へ教えに行くのだろう。それに妹の入院では堪らない。大久保に越したのも、あるいはそんな経済上の都合かも知れない。宵の口ではあるが‘場所が場所だけにしんとしている。庭の先では虫の音がする。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250423