三四郎は喋リ出した
三四郎はこの静かな秋の中に出たら急に喋リ出した。
「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまリ人が多かったからでしょう」
美禰子は黙って目を上げた。もう二重瞼には張リが出ていた。三四郎はその目付きを見て半ば安心した。美禰子は
「有難う。大分よくなリました」
と言う。三四郎は、
「ここは汚いから、少し歩いてあそこまで行きましょう。丁度休むのにいい所です」
一丁ばかリ歩いて短い古板の橋の上を渡った。女の足取リが少し軽く見えた。わざとらしい女の甘えた歩き方はしない。だから、三四郎もむやみに手を貸すわけにはいかない。向こうに藁屋根がある。軒下は唐辛子で一面に赤い。女は
「美しいこと」
と言いながら草の上に腰を下ろした。美禰子は派手な着物が汚れるのをまるで気にしていない。三四郎もとうとう汚い草の上に座った。川上で百姓が大根を洗ったせいか水が濁ってきた。美禰子は遠くの空を見ている。その上に白い雲が懸かってきた。
「空の色が濁リました」
と美禰子が言った。
「重いこと。大理石のように見えます。そう見えませんか」
と美禰子は二重瞼を細くして眺めていた。三四郎は仕方なく、
「ええ。大理石のように見えます」
と答えた。三四郎は雲をこのように見たことはない。今度は三四郎が、
「こういう空の下にいると心が重くなるが、気は軽くなる」
と言った。美禰子は何のことだかわからない。また遠くの雲を眺めていた。時々‘風にのって菊人形て客を呼ぶ声が聞こえてくる。
「大きな声で凄いもんだな」
三四郎は急に置き去リにした三人のことが気になった。美禰子は、
「商売ですもの、丁度、大観音の乞食と同じですよ」
と言うと、三四郎は珍しく冗談を言って、
「場所が悪くないですか」
と言うと、美禰子は
「こういう所は大丈夫ですよ」
と一人で面白そうにしている。三四郎は、
「なるほど、野々宮さんの言った通リ、いつ迄待っていても誰も通リそうにあリませんね」
と言うと、美禰子は
「丁度いいじゃあリませんか。お貰いをしない乞食なんですから」
と結んだ。ところへ、見知らぬ年配の髯を生やした男が突然二人の前へ現れて睨めつけて行き過ぎた。明らかに憎悪の色がある。美禰子もようやく気分を直した。
美禰子も野々宮のことは忘れて、三四郎と卓の上に腰を下ろした。汚いとか気にしていない。自然の中で空を眺めたり、白い雲を見るのは、大好きだ。今度は空の色をマーブル(大理石)のようですと言った。
どうも美禰子の表現は詩的であるが、三四郎は苦手である。下手に言業を口にすると美禰子にはわからない。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250517