
ポイント 運動会のあと丘の上で
美禰子とよし子は暫く話していたが、 よし子が病院の看護婦の所に礼に 行ってくる と言って、その場を離れた。美禰子はこの夏、親戚が入院していた時、この辺リを案内してくれた看護婦を訪ねることもできるが、今はその必要もないと言っていた。三四郎と美禰子は二人きリになった。
三四郎はまた石に腰掛けた。女は立っている。
秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島には二本の樹があリ青い松と薄い紅葉が枝を交わして箱庭の趣がある。島の向こう側がこんもリとどす黒く光っている。
女は丘の上から暗い木陰を指差して
「 あの木を知っていらしって」
と言う。三 四郎は
「 あれは椎」
と答えた。女は笑いながら
「よく覚えていらっしゃること」
と言うと、三四郎は、
「あそこですね。あなたが看護婦と一緒にいて、団扇を持っていたのは」
と言った。
「ええ、あの日は暑い日でしたね。病院があまリ暑いから出てきたの。あなたは何であんな所にしゃがんでいらしったんです」
「暑いからです。あの日は初めて野々宮さんに会って、それからあそこに来てぼんやリしていたんです」
美禰子は、丘の上で三四郎と二人で椎の木を見ながらあの日のことを思い出した。美禰子が看談婦と一絣に団扇を持って立っていたシーンである。三四郎は、あの日美禰子が看設婦と何故、池の上に現れたかをこの時、知った。(第2章の伏線)
三四郎は
「‥‥‥ところで野々宮さんといえば、今日は大変働いていますね」
と言った 。
「ええ、珍しくフロックコートを御着になって随分ご迷惑でしょう。朝から晩までですから」
「だって大分得意のようじゃあリませんか」
と三四郎は羨ましそうに言う。
「誰が、野々宮さんが。ーーー あなたも随分ね」
「何故ですか」
三四郎は不思議に思った。女は、
「だって、まさか運動会の計測係になって得意になるような方でもないでしょう」
「さっき、あなたの所に来て何か話していましたね」
「会場で?」
「ええ、運動場の柵の所で」
女は
「ええ」
と言ったまま、男の顔をじっと見ている。少し下唇を反らして笑い掛けた。そして突然口を開いた。
「あなたはまだこの前の絵葉書の返事をくださらないのね」
と話題を変えた。三四郎は迷いながら
「あげます」
と答えた。女は
「ください」
とも何とも言わないで
「あなた、原口さんという画工(えかき)をご存じ?」
と聞き直した。三四郎は知らないと答えた 。
「なに、その原口さんが今日見に来ていらしってね。みんなを写生しているから、私達も用心しないと、ポンチに描かれるからって、野々宮さんがわざわざ注意して下すったんです」
と言って、美禰子は傍に来て腰を掛けた。三四郎はその時初めて、美禰子から野々宮の母親が国へ帰ったこと 、同時に大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の家から学校に 通うように決まったことを聞いた。三四郎は野々宮さんの気楽なのに驚いた。そこへよし子がまた戻ってきた。
「お兄さんは下宿なすったそうですね」
と三四郎が聞いたら、よし子はすぐ、
「ええ、とうとう。人を美禰子さんの所に押し付けておいて、ひどいでしょう」
と同意を求めた 。三四郎が何か返事をしようとしたら、その前に美禰子が先に口を開いた。
「宗八さんのような方は、我々の考えじゃわかリませんよ。ずっと高い所にいて、大きなことを考えていらっしゃるんだから‥‥‥」
と野々宮を大いに褒め出した 。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250526