
ポイント 二人は小屋を出て小川の岸へ
ニ四郎は、ようやく追いついたので「里見さん」と呼んだ。美禰子は三四郎を見たが、何も言わない。美禰子はさも物憂そうである。一四郎は美禰子の二重瞼にある霊の疲れ、肉の弛み、苦痛に近い訴えを認めた。美禰子は
「もう出ましょう」
と言った。二人が表に出て並んだ時、美禰子は俯(うつむ)いて右手を額に当てた。周囲は混雑しているので三四郎は女の耳に口を寄せた。
「どうかしましたか」
女は谷中(やなか)の方に歩き出した。暫く歩いて女は
「ここはどこでしょう」
と尋ねた。三四郎は、
「こっちに行くと谷中の天王寺に出て、帰リ道とは反対の方向です」
「そう。私、気分が悪くなって‥‥‥どこか静かな所はないでしょうか」
と女が聞いた。谷中と千駄木(せんだぎ)の谷間に小川が流れている。三四郎はこの小川の岸をよく歩いているので知っている。美禰子が立っている所は、根津に抜ける石橋の傍である。ニ人は石橋を渡リ左に折れて、暫く歩いてからこちらに渡リ返した。川の縁はもう人は通らない広い野原である。
美禰子はただ物憂そうな顔をしている。苦痛に近い訴えがある。
美禰子は何を訴えていたのであろうか。
原因は野々宮の態度にあった。折角野々宮も一緒に来てくれたのに、野々宮は美禰子に少しも優しい声を掛けてくれない。飛行機のことを話しても野々宮は科学的なことばかり言って口暗嘩になるし、小屋に入ると今度は広田と菊の栽培法などを真剣に喋っている。一向に美祗子の顔すら見ていない。おまけに人いきれで具合が悪くなった。
三四郎に野々宮のことは言えないしわかってくれないだろう。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250516