広田先生の貸家探し
ある日の午後、三四郎は例の如くぶらついて、団子坂の上から左に折れて千駄木林町の広い通リに出た。秋晴れといって、この頃は東京の空も田舎のように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭はすっきリする。気が伸び伸びとして魂が大空ほどの大きさになる。それでいて身体全体が締まってくる。だらしのない春の長閑けさとは違う。三四郎は左右の生垣を眺めながら、生まれて初めての東京の秋を嗅ぎつつやってきた。坂下では菊人形が二、三日前に開業したばかリである。坂を曲がる時は熾(のぽリ)さえ見えた。
今はたた声だけが聞こえる。どんちゃんどんちゃんと遠くから囃している。その囃(はや)しの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がる。騒がしいというよリかえっていい心持ちである。
そこに突然、左の横町から二人が現れた。その一人、与次郎が三四郎を見て「おい」と言った。
与次郎の声は、今日に限って几帳面である。連れがいたのだ。三四郎がその連れを見た時、日頃の推察どおリ、青木堂て茶を飲んでいた人が、広田さんであるということを悟った。この人とは水蜜桃以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで煙草を呑んで、自分を図書館に走らせてから、一層よく記憶にしみている。いつ見ても神主のような顔に西洋人の鼻を付けている。今日もこの間の夏服て、別段寒そうな様子もない。
三四郎は‘挨拶しようと思ったが、どう口を利いていいかわからない。ただ‘帽子を取って礼をしただけである。すると与次郎が、すぐ、
「この男は私の同級生です。熊本の高等学校から初めて東京へ出てきた———」
と聞かれもしないのに田舎者を吹聴して置いて、それから三四郎の方を向いて、
「これが広田先生。高等学校の.. . . 」
と双方を紹介してしまった。
この時、広田先生は
「知ってる、知ってる」
と二度繰リ返して言った。
与次郎は三四郎に、
「君、この辺に貸家はないか。広くて、綺麗な、書生部屋のある」
と尋ねた。
「貸家はと‥‥‥ある」
三四郎は
「綺麗なのがある。大きな石の門が立っているのがある」
と言った。
「そリゃ旨い。どこだ。先生、石の門はいいですな。是非それにしようじゃあリませんか」
と与次郎は乗リ気てある。先生は
「石の門はいかん」
と言うが、与次郎は、
「石の門はいいですよ。新しい男爵のようでいいじゃないですか、先生」
と真面目である。ともかく見ることにした。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250501