広田先生の引越し
広田先生の家は急に決まった。本郷の西片町十番地への三号である。三四郎は引越しの手伝いを頼まれた。明日の天長節に引越すと言う。三四郎は翌日約束通リ西片町にやって来た。
西洋間、座敷‘茶の間、勝手、下女部屋の他に二階がある。庭には百日紅が枝だけ隣から覗いておリ、大きな桜がある。近くの高等学校で天長節の式が始まった。

ポイント
池の女の登場
その時庭木戸がすうと開いた。そうして思いも寄らぬ池の女が、庭の中に現れた。女は
「失礼でございますが。」
と会釈した。会釈しながら三四郎の顔を見つめている。女の目は、美学の時間に習ったクルーズの画にあるヴォラプチュアス(官能的)な表情である。しかしクルーズの画とは似ていない。女は
「広田さんのお越しになるのは、こちらてこざいましょうか」
と丁寧に聞いたが、三四郎は
「はあ、ここてす」
とぶっきら棒に答えた。
「まだお移リにならないんでございますか」
「まだ来ません。もう来るでしょう」
女はしはし送巡した。手に大きなバスケットを提げている。
風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。
「あなたは‥‥‥」と女は三四郎に間いた。
「掃除に頼まれて来たのです」
「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」
と女はまだ立っている。三四郎は仕方なく
あなたは‥‥‥」
と同じようなことを聞いた。女は帯の間から一枚の名剌を出してくれた。名刺には里見美禰子とあった。
「あなたにはお目にかかリましたな」
と三四郎が言うと、女は、
「はあ。いつか病院で‥‥‥、それから池の端て」
と、よく覚えている。女も手伝いを頼まれて来たのだ。三四郎はここで初めて、池の女は里見美禰子であることを知ったが、美禰子の官能的な表情に改めて驚いた。それにしても美禰子は二皮の出逢いをよく覚えている。三四郎はますます二人の因縁を感じた。一方、美禰子は三四郎を見て、
「この人は広田先生とも関係のある人だな」
ということがわかった。前同、病院ではよし子から野々宮の友人であることを聞いている。
「いずれ私達の仲間に入ってくるかも知れない。自己紹介をしておきましょう」
と、帯の間から名刺を出して、名前を名乗った。これで三四郎との距離はかなり近くなった。相手の素性がわかれば、美禰子は天性の人懐こさを発揮する。無意識な偽善家( アンコンシャス・ヒポクリット)である。早速二人で仲良く掃除を始めた。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250505