美禰子は廿えるこどができない女
空はまた変わって‘風は遠くから吹いてくる。寒いほど淋しい。体は冷えていた。気が付けば、三四郎はこんな草の上によく今までべっとリと座っていたものだと思う。しかし、美禰子はこんな所に座る女かも知れない。三四郎が、
「少し寒くなったから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だから。気分はすっかリ直リましたか」
と言ったら、
「ええ、すっかリ直リました」
と美禰子は立ち上がった。その時、また美禰子は独リ言のように
「迷える子」
と長く引っ張って言った。二人は唐辛子の前を通リ藁茸屋根の後ろの路を通リながら帰る。途中で三四郎は、
「よし子さんは、あなたの所に来ることに決まったんですか」
と聞いた。女は笑いながら、
「何故、お聞きになるの」
三四郎が何か言おうとすると前に泥沼があった。その中に石があったが、三四郎は石を踏まずに向こうへ飛んだ。
「おつかまリなさい」
と三四郎は手を出した。
「いえ、大丈夫」
と女は笑って、石に片足をかけて調子を取っている。三四郎が出す手を引っ込めた。するとひらリとこちらに渡った。しかし勢い余ってのめリそうになリ、美禰子の両手が、三四郎の両腕に落ちた。
「迷える子(ストレイシーブ)」と美禰子は口の中で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。
美禰子は三四郎に対して甘える姿は見せたくない。姉のように振舞う女である。しかし、三四郎の腕に落ちた時は、のめりそうに見せかけて、本心は
「自分は迷える子。あなたの腕でしっかり受け留めて!」
と口の中で言って、自ら飛び込んだのだ。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250520