日本近代絵画史と原口画伯
原口画伯のモデルは黒田清輝である。黒田清輝はパリに留学し、明治十九年(一八八六年)に外光派のラファエル・コランに師事した。
コランは、自然の森や田園を背景として外光下の優雅な婦人像を描写して、その絵画が展覧会で人気を博していた。コランに師事したパリ帰りの黒田清輝、藤雅三、久米桂一郎等は、明治後半期の日本洋画壇の形成に人きな影評を及ぼした。
黒田の最も有名な女性の肖像画は浴衣姿の女性が団扇で扇いでいる「湖畔」という絵画である。これは中学校の美術の教科書にも載っている。
この作品は明治三十年の第二回白馬会展に「避暑」の題名で出品され明治三十三年( 一九〇〇年)のパリ万博にも出品された。この頃、黒田だけでなく、「森の女」をイメージするような作品が多く出展されて、女性の肖像画「森の女」に象徴されるように流行していた。美禰子も展覧会では、これらの絵画を多く観る機会があったと思われる。
美禰子が、森を背景に、夕陽に団扇を幣して立っているポーズはこれらの絵の影響であろう。
では、何故、自分が「森の女」のモデルとして肖像画を描いてもらう気になったのか。
これには、また別の逸話が絡んでくる。第8章に出てくるヴェラスケスの模写である。ヴェラスケスは十七世紀のスペインの宮廷画家で、宮廷の皇女の肖像画を多く描いていた。彼の絵画は欧州の展覧会に出品されて、各国皇族との政略結婚のための見合い用でもあった。つまり、女性の肖像画=見合写真を意味した。第13章の展覧会で美禰子の「森の女」が掛けられた正面の大きな場所は、ヴェラスケスの模写があった大きな壁である。
即ち、「森の女」←「女性の肖像画」← 「ヴェラスケス」← 「見合写真」という連想が暗示される。美禰子も当初は、見合いのために原口画伯に「森の女」を描いてもらう意図があったものと思われる。 P58

黒田清輝「湖畔」(画像提供:東京文化財研究所/所蔵:東京国立博物館)
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250416