広田先生の帰宅
ところへ広田先生がフロックコートて天長節の式から帰ってきた。今度は四人で片付け始めた。先生の書物は多い。先生はあまリ人の読まない本、アフラ・ベーンの小説も読んでいる。三四郎も与次郎も感心して、あれだから「偉大なる暗闇」だという。
美禰子が昼食に沢山のサンドウィッチを持ってきたので、座敷に集まった。
アフラ・ベーンのことを与次郎が先生に聞いた。イギリスの十七世紀の閨秀作家で、彼女の『オルノーコ』(注2) という小説を読んだと言う。
与次郎が冗談混じリに色の黒い三四郎を主人公にして『オルノーコ』でも書いたらと美禰子に言っている。美禰子は小説も書けるらしい。三四郎に
「書いてもよくって」
と半ば真面目な顔である。三四郎は無論断った。皆が気楽に談笑している。
美禰子が広田先生の脱ぎ捨てた洋服を畳んでいる。先生に和服を着せたのも美禰子らしい。
まるで、細君気取りであるが、これも無意識の偽善である。三四郎は気になった。
先生は『オルノーコ』に ついて、その後サザーン(注3)という人が同名で脚本を書いたと言う。その脚本の中に有名な句がある。
「Pity’s akin t love」
という句だそうだ 。与次郎が代表して、俗謡で、
「可哀想だた(だとは)惚れたってことよ」
と翻訳した 。先生は
「それはいかん下劣の極だ」
と忽ち苦い顔をした。三四郎と美禰子は笑っている。
(注2 ) 『オルノーコ』〈Oroonoko,the Royal Slave〉
イギリスの女流作家アフラ・ベーンが一六八八年に書いた小説で彼女の代表作である。副題は「王国の奴隷」。奴隷解放運動を先取りすると同時に、イギリスのリアリズム小説の先駆として評価されている。イモインダという娘との恋も織り込まれ、逃亡を図ったオルノーコは最後に殺されるというストーリー。
(注3 ) T・サザーン〈Thomas Southerne〉
イギリスの劇作家トーマス・サザーンは、アフラ・ベーンの小説『オルノーコ』を脚色した。
その中に「Pity's akin to love」という布名な旬がある。その意味は、哀れむという同情心は、愛情に近いものである。ここでは一人の将来の愛を暗示する言葉。 将来、美禰子も三四郎も、心の中にこのような愛の感情を持ちながらも四郎の感性の鈍さに、すれ違いが生じて、お互い悩むことになる。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250508