野々宮さんの来宅
ところへ野々宮さんが庭木戸を開けて入ってきた。皆が賑やかに笑っているので聞いたら、今‘与次郎が英語の翻訳で先生に叱られたと言う。少し言葉を詰め過ぎたが、当たり前に延ばすと
「可哀想だとは惚れたということよ」
ということである。美禰子が原文を
「Pity’s akin to love」
と綺麗な発音で繰リ返した。野々宮さんは感心しているが、三四郎は野々宮さんの美禰子に対する態度と視線が気になった。野々宮さんは、
「先生‘折角大久保に越したが、またこっちに出てくるようになリそうです」
と言う。
妹が学校の行き帰リに戸山の原を通るのがいやだとか、夜遅くまで待っているのが淋しいと我侭を言っているようで‘美禰子によし子を食客として預かってくれないかと頼んでいる。美禰子は気楽に
「いつでも置いてあげますわ」
と答えた。
ところで、よし子が団子坂の菊人形が見たいと言っているので皆で行かないかという話になった。美禰子は、
「小川さんもいらっしゃい」
と誘った。広田先生も
「菊人形はいいよ」
と乗り気である。
「じゃあ先生もいらっしゃい」
と美禰子が言った。野々宮は、
「では、これで失礼します」
と腰を上げて、出ていこうとするので、美禰子は、
「もうお帰リ。随分ね」
と不満そうである。広田先生が
「この前のものはもう少し待ってくれ給え」
と言うので、野々宮さんは、
「ええ‘ようござんす」
と受けて庭から出て行った。美禰子は急に思い出したように
「そうそう」
と言いながら庭の下駄を履いて野々宮の後を追いかけた。三四郎は無言のまま座っている。野々宮が
「大久保からまたこちらに出てくるので、よし子を預かってほしい」
と言った時、美禰子は内心ドキリとした。しかし皆の前なので
「いつでも置いてあげますわ」
と平然と答えたが、野々宮の気持ちはどうなのかと不安を覚えた。野々宮は自分の用件を済ますと、すぐ帰ると言い出した。美禰子は心配になり後を追いかけたが、美硼子にはプライドがあるから、自分を抑えて、野々宮には
「菊人形展には必ず来て下さいね」
と確認するに留まった。美礁子はできるだけ彼と一緒にいる時間を作りたかった。
『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250509