開戦回避への努力と大東亜会議の構想
首相就任後の東條の方針は、陸軍大臣時代のものとまったく異なっていて、昭和天皇の意思の実現(平和路線)に全力を尽くそうとした。
しかし、もともとアメリカは戦争を望んでいたので、妥協案はすべて拒否。11月末にはハル・ノートを日本に示して、
①日本軍の中国からの即時全面徹兵、
②満洲国を認めない、
という内容を通告した。対米協調派の東郷外務大臣ですら「これは日本への自殺要求に等しい」と受け止め、外務大臣として「これは最後通牒である」と認めている。
対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかったことで、開戦日の未明、首相官邸の自室で号泣したと記録されている。日本はアメリカの陰謀に勝てなかった。
大東亜会議は、重光葵(しげみつまもる)外務大臣の提案をもとに1943年11月、東京で開催し、同盟国のタイ王国、満洲国、中華民国(注兆銘政府)と、白人国家の植民地だった国で日本軍が白人を追い出したアジア各国、そして日本の占領下であったが独立準備中の各国政府首脳を召集し、「大東亜共同宣言」を採択して欧米の植民地支配を打倒する政治的連合を作り上げた。
旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加など若千の欠陥はあったが、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のナイル氏など幅広い協力を受けて会議は成功、各国代表からは会議を緻密に主導した東條は高く評価されている。
東條は単に会議を開いたというだけではなく、前年には、大東亜圏内の国の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我が国を指導者とする所の外交あるのみ」としている。昭和18年3月には満洲国と中華民国(汗兆銘政府)、5月にフィリピン、6月から7月にかけてタイ、シンガポール、インドネシアなどを歴訪して準備をしている。
また、東京裁判中の「東條英機宣誓供述書」では、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我が国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」としている。実に立派な考えで、現在の外交も「相手の国は敵」という対立的な考え方であるが、東條は「国同士が対立しない外交」を念頭に置いている。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R07202511018