
第9章 本郷四丁目の唐物屋 あらすじ 精養軒での会合
与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。三四郎は、三輪田のお光さんが縫ってくれた黒い紬(つむぎ)の羽織を着て来た。集まったのは知名人ばかリで約三十人足らずである。広田先生、野々宮さん、原口さんが出席している。与次郎は例によって知名人の間を飛びまわって世話を焼いている。悉く旧知のように親しそうにしている。三四郎に今のは誰それだと教えてくれた。批評家あリ、博士あリ、教授あリで、各自談笑に興じている。野々宮さんは理学者だが、絵や文学が好きだからということで、原口さんが無理に引っ
つま
張リ出したそうだ。原口さんは愛嬌を振リまいて、フランス式の髯を撮(つま)んでみたリ、万事忙しそうである。やがて着席になって、各自が勝手なところに座った。野々宮さんと広田先生の間には縞(しま)の羽織を着た批評家が座った。向こうには庄司という博士が座っている。
これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。品格のある男で‘髪を普通以上に長くしている。原口さんは大分離れて席を取った。そのうち向こうの端から原口さんが野々宮さんに話しかけた。原口さんは声が大きい。皆が黙って聞いた。野々宮さんの、光線の圧カの試験について聞いている。野々宮さんは、
「絵はインスピレーションで直ぐ描けるからいいが、物理の実験はそう旨く行かない」
と返答している。インスピレーションの話から小説の創作の話に移リ、さらに光線の圧力実験の方法に飛んだ。広田先生は、
「どうも物理学者は自然派じゃ駄目のようだね」
と言って、満場の興味を剌激した。野々宮さんが、どういう意味かと聞いたので、広田先生曰く、
「光線の圧力を試験するために単に自然を観察しても駄目である。そのための特別な装置が必要である。だから自然派じゃないよ」
と。では、浪漫派かという議論になリ、広田先生は
「光線と受ける装置が普通の自然界にない位置関係におくところが浪漫派だ」
と弁解した。
「だけど、一旦その装置ができれば、それから後は自然派てしょう」
と野々宮さんは言った。すると向こう側の博士が、
「物理学者は浪漫的自然派ですね」
ということになった。今度は博士と批評家の討論で、文学の上では、イプセンの劇の如く、ある装置の下に動く人間は、自然の法則に従っているかどうか疑わしいという。それから、広田先生や、博士、小説家、画家などが交互に意見を吐いて、物理学者、画家、小説家にも純粋の自然派はあるということに落ち着いた。
会が終って‘与次郎は
「今夜の広田先生は庄司博士によい印象を与えたろうか」
と聞いたので、三四郎は
「与えたろう」
と答えた。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250614