東京裁判と東條英機の国家弁護の姿勢
敗戦後、東條は自殺を図る。
短銃で心臓を撃ったのだが、自決を予想していたアメリカ軍は、銃声を聞いて一斉に突入、救急処置の後、あらかじめ準備していたアメリカ人軍医ジョンソン大尉が救命した(アメリカ軍は東條をどうしても処刑したかった)。
ところが日本の新聞は、政府高官が次々と自決するなか、自決に失敗した東條の記事を大きく掲載。その結果、多くの日本人から顰蹙(ひんしゅく)をかった。入院中はアメリカ軍のロバート・アイケルバーガー中将などが見舞いに訪れたが、日本人の見舞客は家族以外ほとんどなく、東條は日本人の豹変(ひょうへん)振りに大きく落胆したとされる。
東京裁判になっても彼は自己弁護は一切行わず、「大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しない」という論理展開で「国家弁護」を貫いたが、自分は「敗戦の責任」(戦争ではなく負けたことの責任)は負うと宣誓口述書で明言している。
リンチ風の裁判だったが、東條の国家弁護は理路整然とし、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料にもとづいて指摘し、「こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意した」と主張した。
また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部(とうすいぶ)に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と明確に証言し、天皇の免訴を最終的に確定することになった。
他の被告と違い、東條が一切の自己弁護をせず国家弁護と天皇擁護に徹する姿勢であったことが次第に明らかになり、評価も持ち直した。ただ、田中隆吉をはじめ戦犯リストに名前がある人が、裏切り行為を行ったことも東條には不利だった。
残念ながら敗戦から「東京リンチ」の結末が出るまで、日本人の中には武士(軍人)であっても「卑怯者、小物」が多くいたことは確かだった。日本は戦後70年を経て、まだ独立を果たしていない(アメリカ軍が進駐している)が、それもこの「東京リンチ」のときの指導部の一部の裏切り行為が尾を引いていると考えられる。
戦後70年を経て、世界史のうえでもっとも功績のあった東條英機を、まずは日本の中でよく整理し、できれば国民の合意のうえで高い評価をしたいものと思います。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R07202511019