二十四 精神集中
この項は後に述べる第二十七項と明らかに矛盾している。すなわち武士道においては、武士道一途(ず)に専念することが正しい道であるのに、芸能においては愚痴であるから、それ一偏に執着するななどと言ってけなされている。芸能ということばは「葉隠」では、現代とは多少異なった意味を持っている。広く、才能技芸のことを言って、現代における技術者の技術もこの芸能に当たるものである。常朝のいう意味は、武士とは全人的な存在であり、芸能をこととする人間とはファンクションに堕した一つの機能的な歯車にすぎないという考えがあったと思われる。すなわち、武士道一辺倒に生きるとは一つの技術の習熟者として、一つの機能として扱われることではなくて、一人一人の武士が武士を代表しつつ、一人一人の武士が武士道全体を、ある場合には代表するという作用を営むものである。われ一人お国を背負うという覚悟をもって、大高慢で事に当たる武士は、そのときもはやファンクションではない。彼が武士なのであり、彼が武士道なのである。したがって、武士道一途に生きるときには、人間はただ人間社会の歯車に堕する心配はない。しかし、技術に生きる人間は、ことに現代のような技術社会の一機能として作用する以外に、自分の全人的な人生を完成することはできないのである。したがって、武士が全人的な理想を持ちながら、同時に別な技術に執着することになっては、機能をもって全体を蝕むことになるだろう。「葉隠」がおそれたのはここであった。その理想的な人間像は、一部が機能であり、一部が全体であるような折衷的な人問ではなかった。全人には技術はいらなかった。彼は精神を代表し、行動を代表しそして国がよってもって立つ理念を代表していたのである。それがこの項の「物が二つになるが悪しきなり。」という意味であろう。
「物が二つになるが悪しきなり。武士道一つにて、他に求むることあるぺからず。道の字は同じき事なり。然るに、儒道仏道を聞きて武士道などと云ふは、道に叶はぬところなり。かくの如く心得て諸道を聞きて、いよいよ道に叶ふぺし。」(聞書第一 一四八頁)
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240819 P65