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ポイント 三四郎と美禰子の会話 気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より

ポイント 三四郎と美禰子の会話





翌日、美禰子の家を訪問した。取次ぎの下女に「美禰子さんは御宅てすか」と聞いたが自分ながら妙齢の婦人を訪ねるのは気恥ずかしい。三四郎は応接間に通された。西洋風である。正面に暖炉があリ、その上が横に長い鏡で前にロウソクが二本立っている。奥の方でバイオリンの音がしたが、すぐ消えた。鏡とロウソクを眺めていると、西洋のにおいがする。カソリックを連想する。
またバイオリンが鳴ったが今度はどうも無作法に鳴らしただけである。
暫くして、鏡を見ると美禰子がいつの間にか立っていた。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。にこリと笑っている。

「いらっしゃい」

と後ろで言った。三四郎は振リ向いて直(じか)に顔を見合わせた。
女はちょっと頭を下げたが、礼をするには及ばないくらいに親しい態度である。今度は向こうに回って、鏡を背に三四郎に向かって腰を下ろした。

「とうとういらしった」

と同しように親しい態度てある。三四郎はこの一言が非常に嬉しく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきから待たせたところをみると、わざわざ着替えたものらしい。眼と口に笑みを浮かべて無言のまま三四郎を見つめている。三四郎は美禰子にあらたまって見られると、どうも息苦しい。すぐに口を開いた。殆ど発作的であった。
「佐々木が‥‥‥」

「佐々木さんが、あなたの所にいらしったでしょう」

と落ち着いた様子で例の白い歯を見せた。女の後ろはロウソク立てがマントルピースの左右に並んでいて、後ろに鏡がある。室内は厚いカーテンで薄暗い。その上に天気は曇っている。三四郎はその間に美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました」と三四郎は答えた。「何と言っていらっしゃいました」

「僕に、あなたの所へ行けと言ってきました」

「そうでしょう。————それでいらしったの」

とわざわざ聞いた。

「ええ」

と言って少し躊躇してから

「まあ、そうです」

と答えた。女は全く歯を隠した。静かに席を立って‘窓の所へ行って、外を眺めた。

「曇リましたね。寒いでしょう、外は」


「いいえ、存外暖かい。風はまるであリません」

「そう」

と言いながら席へ帰ってきた。

「実は佐々木が金を‥‥‥」

と三四郎から言い出した。

「わかってるの」

と中途でとめた。三四郎も黙った 。すると

「どうして御失くしになったの」

と聞いた。

「馬券を買ったのです」

女は「まあ!」

と言った。まあと言った割に顔は驚いていない。かえって笑っている。少し経って

「悪い方ね」

と付け加えた 。美禰子は、姉のような態度で、三四郎を諭すように優しい。三四郎は答えずにいたら、美禰子は、

「馬券で当てるのは、人の 心を当てるよリ 難しいじゃあリませんか。あなたは索引の付いている人(私の心さえ当てて見ようとなさらない呑気な方なのに‥‥」

と言った 。あなたは私の心の中を知りたいくせに見ようともなさらない。

「三四郎さん、私の気持ちを察してドさい!」

と訴えているのに 。

「僕が馬券を買ったんじゃあリません」

と三四郎は答えた。そして

「借リなくてもいいんです」

と返事をした。三四郎は美禰子の意味をわかっていない 。彼女の心を当てるよりも、馬券に拘っている。そして、さらに事態を悪いに向けた。

「あら。誰が買ったのです」

女は急に笑い出した。三四郎も可笑しくなった。

「じゃ、あなたがお金を御入用(おいりよう)じゃなかったのね。馬鹿馬鹿しい」

「要ることは僕が要るのです」

「本当に?」

「本当に」

「だってそれじゃ可笑しいわね」

「だから借リなくってもいいんです」

「何故、おいやなの?」

「いやじゃないが、お兄さんに黙って、あなたから借リるとよくな いからです」

「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」

「そうですか。じゃ借リてもいい。しかし借リなくてもいい。家へそう言ってやリさえすれば一週間くらいすると来ますから‥‥‥」

ここらが、女の心を読めない三四郎の鈍感なところである。下手に遠慮して、借りなくてもいいと言ってみたり 、借りてもいいとどっちな のかはっきりしない。美禰子さんに借りたいとはっきり言えばいいのに。

「ご迷惑なら、強いて」

美禰子は急に冷淡になった。

それごらんなさい 。

今まで傍にいた美禰子が一町ばかリ遠のいた気がする。三 四郎は借リておけばよかったと思った。けれども、もう仕方ない。三四郎は他人の機嫌をとったことがない。女も遠ざかったきリで、近づいてこない。空気がまずくなった 。暫くするとまた美禰子は立ち上がった 。窓から外をすかして見て

「降リそうにもあリませんね ‥‥‥私ちょっと出てこようかしら」

と言う。三四郎は自分に帰ってくれという意味だと解釈した。光る絹に着替えたのも自分のためではなかった 。
三四郎はマイナスのことばかり考えて、自らを窮地に追い込んでしまう。本当は三四郎と出るつもりであった。

「もう帰りましょう」

と仕方なく三四郎は立ち上がった。すると、美禰子が玄関まで送ってきて、

「そこまで、ご一緒しましょう。いいでしょう」

と言った。

「ええ、どうでも‥‥」

と三四郎は意に反して、つれない返事。女は、和土(たたき)の上に降リて、三四郎の耳の傍に口を持ってきて 、
「怒っていらっしゃるの」

と囁いた。美禰子が近づいてきて耳元で喘いた言業に、三四郎は、何故か姉のような優しさと愛を感じた。

気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より  R0720250608

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