三十八 写し紅粉(こうふん)
わたしは、この一節を何度引用したかわからない。酔いざめや寝起きのときには顔の色が悪いことがあるから、紅粉を出してひいたがよいということを、武士にすすめているこの一節は、われわれの考える観念の中にある武士とはずいぷん違ったものであり、また、一見女風になって衣装の吟味ばかりしている青年の姿と通ずるかのようである。大正時代にもポンベアン・クリームというのが流行して、当時の青年たちは頬にクリームを塗って薄化粧をしていた。
しかし常朝のいう写し紅粉ほど、このような考えから遠いものはない。男は死んでも桜色。切腹の前には死んでも生気を失わないように、頬に紅をひき、唇に紅をひく作法があった。そのように敵に対して恥じない道徳は、死のあとまでも自分を美しく装い、自分を生気あるように見せるたしなみを必要とする。まして生きているうちには、先ほどからたびたび言った外面の哲学の当然の結果として、ふつか酔いの青ざめた顔は武士としてのくたびれたありさまを示すものであるから、たとえ上に紅の粉をひいても、それを隠しおおさねばならない。ここで外而の哲学が美の哲学と結びつくキーボイントが提示される。なぜなら美とは外面的なものである。そしてギリシャ時代に美が倫理と結合したように、「葉隠」の世界でも、ここにいたって美ということが道徳の基本的な性格を規定するのである。美しいものは強くいきいきと、エネルギーにあふれていなければならない。それがまず第一の前提であるから、道徳的であることは美しくなければならないことである。しかし、それは衣装を吟味したり女風になることではなくて、美と倫理的目的とを最高の緊張において結合することである。このようなふつか酢いにおける紅粉は、ただちに切腹の死化粧に通じる考えと思ってよい。
「写し紅粉を懐中したるがよし。自然の時に、酔覚(よいざめ)か寝起などは顔の色悪しき事なり。斯様の時、紅粉を出し、引きたるがよきなりと。」(聞書第二 一七〇頁)
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240902 P76