「葉隠」が暗示しているような死は、選ばれた死であろうか。
では 、「葉隠」が暗示しているような死は、それとはまったく違った、選ばれた死であろうか。わたしにはそうは思われない。「葉隠」は 一応、選びうる行為としての死 へ向かってわれわれの決断を促しているのであるが、同時に、その衷には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている。人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強いられることもできない。たとえ、強いられた死として極端な死刑の場合でも、精神をもってそれに抵抗しようとするときには、それはたんなる強いられた死ではなくなるのである。また、原子瀑弾の死でさえも、あのような圧倒的な強いられた死も、一個人一個人にとっては運命としての死であった。われわれは運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追いつめられた形でしか、死に 直面することができないのである。そして死の形態には、その人間的選択と超人間的運命との暗々裏の相剋が、氷久にまつわりついている。ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであろう。自殺がそうである。ある場合には完全に強いられた死とも見えるであろう。たとえば空襲の爆死がそうである。
しかし、自由意思の極致のあらわれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、ついに自分で選んで選び得なかった宿命の因子が鋤いている。また、たんなる自然死のように見える病死ですら、そこの病死に運んでいく経過には、自殺に似た、みずから選んだ死であるかのように思われる場合が、けっして少な くない。「葉隠」の暗示する死の決断は、いつもわれわれに明快な形で与えられているわけではない。目の前に敵があらわれ、それと戦 い、そして自分が死ぬか 生きるかという決断を自分で下して死ぬというような状況は、たとえ、まだ日本刀以上の武器がなかった時代でも、いつも簡単に与えられていたものではない。それが証拠に山本常朝自身は、六十一歳まで生き延びたのである。
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240915 P87