日本人が知っておくべき「東條英機」
軍人・政治家としての東條英機の歩み
東條英機に関するもっとも基本的な事柄を整理して本著を終わることにします。
東條英機(とうじょう・ひでき)。明治17年7月30日、東京都千代田区で生まれた。父は陸軍中将の東條英教、母は福岡県出身の徳永千歳。三男。陸軍大将従二位勲一等功二級。大東亜戦争を首相として指導。敗戦後に拳銃自殺を図り失敗。東京リンチ(東京裁判)にて開戦の罪(A 級)および殺人の罪(BC級)として起訴され、昭和23年12月23日、巣鴨拘置所で死刑を執行された。享年63。
陸軍の中でも中心的な役割を果たし、陸軍大臣時代の彼の考え方は次の話でよく理解できる。
陸軍大臣のときに、支那派遣軍総司令部から「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と言われたとき、東條は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」と言ったと近衛日記に記録されている。軍人として骨のある人材だった。
首相になるとき、本命は対米協調派であった東久遁宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)だったが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えられるのは東條しかないこと、また天皇の意向に従う東條が首相として適当と木戸幸一内大臣が天皇に推挙、昭和天皇は「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児を得ず、だね」と承認した。
木戸内大臣は「東條はお上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材である」と述べている。
東條は首相任命の際、昭和天皇から対米戦争回避に力を尽くすように指示され、

それまで開戦派的姿勢をとっていたのをあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を起用して、戦争を前提としていた帝国国策遂行要領を白紙に戻した。
陸軍が強硬に反対していた日本軍の中国からの徹兵要求についてもアメリカに妥協案を出した。
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)
『ナポレオンと東条英機』武田邦彦 ベスト新書(2016)より R07202511017